助けられた命

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「お願いします、今すぐ来てください。1歳の……1歳の子どもが中に取り残されているんです、助けてください!」 そんな電話を受けることがある。別に珍しくない。今だって、電話の向こうの女性はパニック状態だ。 「分かりました、大丈夫です、すぐに向かいます。落ち着いて、現場の住所を教えてもらえますか?」 一つ息を吸い込んで、俺はゆっくり語りかける。外は炎天下、日差しだけでなく気温も痛いくらいに厳しい。一刻も早く涼をと車に乗り込めば、ぱっとナビゲーションシステムが立ち上がった。 女性が発する言葉を繰り返しながら、指先で目的地を入力。滝川町300番地、ここ数年で新しい住宅がたくさん建ったエリアだ。 「この区画の、南西の角にあるお宅ですね?」 「そうです、そこです! お願いします、うちの子、ずっと泣いてるんです……お願い、早く来て!」 「分かりました、お待ちください」 アクセル全開で行ってあげたい気持ちは満々だが、交通事故を起こしては意味がない。 人助けには、優しさ云々の前に冷静でいることが最も重要だ。電話口のあの女性も、俺が現地に着く頃には少し落ち着いていて欲しい。 けれども子どもの顔を見るまでは無理だろう。いつだってどこの親だって、だいたいみんなそうだ。 あの日、俺の母親がまさしくそうだったように。 *** 新築一戸建ての前に着いたのは、ナビが知らせた予定時刻よりも少し早かった。とはいえ、電話を受けてからは5分以上経過している。 汗だくの女性がそわそわした様子でスマホを握り締めて立っていた。泣きはらした目をしているのも、無理はないだろう。 「すみません、お待たせしました」 車を降りて、俺は頭を下げる。差し出した名刺に目を通すこともなく、女性は「お願いします、早く……早く!」と繰り返した。 「では、まず少し拝見させていただきます」 俺は頷いて、大きな扉の前に足を進める。ディンプルキーの差し込み用にと、円形にくり抜かれたヶ所が2つ。さすがは新築一戸建てだ。防犯性の高い鍵を採用している。 扉の向こうからは、確かに子どもの泣く声がした。 「帰宅したばかりだったから、家の中はまだ今、エアコンもついてないはずなんです。熱中症とか……脱水症状とか……」 「奥様」 「はい」 「申し上げにくいのですが」 「? はい」 「これは、交換しかありません」 「交換?」 「ディンプルキーは防犯性の高い鍵です。いわゆるピッキングのようなやり方では、到底開きません。取り付けられている円形の部分を壊して、代わりのディンプルキーを付けるしか手立てはありません」 「壊す?!」 「ええ。円に沿って穴を開け、新しいディンプルキー用の鍵穴を再度取り付ける。“工事”になります」 「そんな大がかりなものになるんですか?」 「はい。とはいえ数分で鍵自体は開きます。交換代も含め、10万円ほど頂戴することにはなりますが……」 「いいです、お金の問題じゃない。数分で開くんですね?! それでいいです、お願いします、早く息子を……」 「承知しました。……ボク、ちょっと待っててね。すぐママと会えるからね」 言葉にならない声を上げて泣き続ける幼子に向けて、俺は声を張り上げる。 もう記憶の彼方だけれど、25年前の俺も確か、同じように泣きじゃくっていた。もちろん、俺の母も。 25年前の夏。2歳になったばかりの俺は、庭で一緒に遊んでいた母の目を盗んで、いたずら心から自宅に入り、鍵をかけた。 「しまった」と、子どもながらに思った。途端に、開け方がわからなくなったのだ。 扉は一瞬にして壁になった。開かない、その事実が俺をどうしようもなく絶望させた。 気付いた母がドアを叩いて、俺の名を呼んだ。俺もドアを叩いては、ママ、ママと叫び続けた。 「落ち着いて、カチャンって横に捻ってみて! お願い!」 諭すような言い方。でも、切羽詰まった感情的な声色。……このときの母の声は、今も鼓膜にこびり付いて離れない。 蒸し暑い住宅内でパニックになり、泣き続けた結果、俺は体力の限界を迎えた。次第に、幼いながらも自分の意識が薄れていることを悟った。 母の声もどこか遠く、聞こえにくくなった気がした。もうダメだと、目を瞑った。 瞬間。 ごん、と派手な音がして、いきなり壁から光が射した。空から迎えがきた。と思ったら、壁に丸い穴が開いていた。 「ボク、大丈夫かい?」 知らない男の人が、穴から俺に笑いかけてきた。真夏の西日が眩しかった。 すぐにがちゃがちゃごりごりと物騒な音が追い掛けてくる。ごとりと一際大きな音がして、壁が取り払われた。 「あぁ! よかった、よかった!」 隙間から母が駆け寄ってきた。一命を取り留めた俺は、抱きしめられた安堵感でまた、バカみたいにわんわんと泣いてしまった。 「ありがとうございます、ありがとうございますカギ屋さん!」 他の言葉を忘れたんじゃないかと心配になるほど、母はそのフレーズをひたすらリピートしていた。 あの日、俺を助けてくれたのは医者でも消防隊員でも、警察官でもない。町の“カギ屋”の兄ちゃんだ。そして俺は今、その、町の“カギ屋”の兄ちゃんになった。 工具と腕で、命を助けることだってできる仕事。泥臭くて誇らしい、俺の天職だ。
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