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テラス 2
「失礼ですが」
すっと立ち上がり、音もなく近寄ると、向かい合う二人の間にそっと顔を出す。
バニラさんをちら、シトラスさんをちら、素早く視線を配って、それぞれに笑顔ビーム発射。
「すみません、つい小耳に挟んでしまったのですが、掃除って、本当に大変ですよねぇ」
バニラさんの頬が面白そうに緩むが、シトラスさんの頬は警戒するように引き締まる。やっぱね。ここは一番バニラさん攻めでしょうな。
「シャドウワークって、ご存知ですか?」
いきなり耳慣れない言葉を投げられると、反射的に「何ですか?」と訊いてしまいがち。
案の定、シトラスさんは手ごわく黙っているが、バニラさんが、「シャドウワーク?」とオウム返してくれた。
「そうです! シャドウワーク!」
すかさず食いつく俺。
「イヴァン・イリイチという人が提唱した概念で、日本では『影法師の仕事』なんて訳されたこともあります」
「影法師……なんか、カワイイ」
バニラさんが微笑む。くー、いい人だ!
「これって実は、主婦のみなさんがやってらっしゃる家事――つまり、炊事、洗濯、掃除といった労働のことを指しているんですね。こういう仕事って大変でしょう? でも、報酬がないですよね。だからいろんな統計とか経済指標に現れてこない、いわば影の部分にある仕事なんですね」
「ああ、だから」
「はい。だから、シャドウワークと言います」
うん! いいよ! バニラさん! 合いの手も最高!
こっからは立て板に水だ! ドトーのトークだー!
「こうした日陰にある仕事を、きちんと評価すべきだという人もいます。ですが、それはなかなか難しい。それよりも、シャドウワークに光を当てよう、というのが当社の理念なんです。つまり、シャドウワークを報酬のある仕事にすれば、それはもうシャドウではありません。税金もかかってきますし、経済指標にも反映されます。つまり、主婦のみなさんのご苦労を、われわれが代行することで、光を当てようという」
「ああ、要は家事代行ってことね」
ばっさりシトラスさんが切り捨てる。
「掃除してやるから金払えってことだ」
く……身も蓋もない……
「いえ、まあ、そうおっしゃられては身も蓋もございませんが」
あはは、と俺は笑いつつ、軽くシトラスさんを睨んだ。
彼女は平然とカプチーノをすすっている。
「そうよ、真夏、身も蓋もよ」
バニラさんのふっくらした唇から、応援の言葉が流れる。女神!
けど、真夏と呼ばれたシトラスさんは肩をすくめただけ。アメリカ人かよ!
とりあえず、シトラス無視! バニラさんに集中っ!
「ありがとうございます。私はただ、貴女のような素敵な女性が、掃除なんかに時間を取られるのはもったいないと思いまして。もっと他になさりたいことがあるのではないかと」
バニラさんが答える前に、シトラスの真夏めがにやにや笑う。
「へー、美鈴、それじゃこの人の会社に、掃除、代行してもらう気?」
バニラさん、美鈴さんって言うんだあー。
きっと色よい返事をくれる、と期待して見つめた。
なのに……
「それは、ほら、あっちの掃除の話でしょ」
美鈴さん、苦笑して言ったのだ。
あっちの掃除?
いや、掃除にあっちもこっちも……
「とにかくさ」
真夏めが、名前に反して真冬の視線を俺に飛ばした。
「あたしたちの話してた掃除と、あんたの言ってる掃除はね、ちょっと違う掃除なんだな」
「ですが、私どもではそれこそお風呂掃除からエアコンのクリーニングまでどのようなお掃除でも……」
俺は慌てて説明しようとしたのに、途中で遮られた。
くそ、真夏、聞けよっ、と思ったが、違った。
遮ったのは、バニラの美鈴さんだった!
「ごめんなさいね」
彼女はつぶらな瞳にすまなさそうな光を湛えている。
「真夏が言ったみたいに、あたしたちの言う掃除はそういうことじゃないの」
……
「ま、でもさ、ひとつ勉強になったよ」
真夏が俺を慰めるように言った。
「確かに、あたしたちの言う掃除も、シャドウワークだね」
美鈴さんもにっこり微笑む。
「ほんと、そう。あたしたち、影法師さんなのねぇ」
「そうだな……あ、そろそろ時間だ」
真夏が腕時計をちらっと見て、立ち上がった。
「あらあら」
美鈴さんも立ち上がる。
「それじゃね」
二人は、風のように去って行った。
渡し損ねた家事代行サービスのパンフレットを握りしめ、俺は呆然と立ち尽くしていた。
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