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下着と着替え、部屋着にタオル。
それらを鞄に詰め込み、挑むはバイト最終日。
とうとう二週間のバイトを終える十時は緊張からか、しっかりと靴ひもを結び直す。
バイト最後の日、だからではない。
いや、最終日は最終日として、きちんと全うする気はあるのだが、今日はその後が一番のイベント…問題と言うべきなのだ。
「泊り…かぁ…」
―――そう、バイトの最終日、イコール」楓の家へ外泊日がとうとうやって来たのだ…。
それだけでもドキドキと緊張し、油断すると息が止まりそうになると言うのに、こんな日に限っていらん事が起こるというか、舞い込んでくると言うか。
ーーー彼の一日が始まる。
まず出勤時。
休憩室で着替えている最中。
シャツの襟を背後から引っ張られ、にたりと笑う楓からキスを受けていると、
「楓?いるー…、」
ガチャリと入って来たのはユキだった。
(…………へ?)
気持ち良さに楓の首に腕を回し口付けられた侭、眼を見開いたユキとばちぃっと視線が合う。
明らかに見られてしまった。
自分の息子がバイトに来ていた後輩と、しかも男とキスをしているとか。
何の言い訳にもならない決定的な場面。
頭が真っ白になり、硬直する十時の顔色が真っ青になり、土色に変わろうとしてた時だ。
「…無理矢理、ではなさそうだねぇ」
「当たり前だろ」
「へぇ、十時くんは楓の恋人だったんだね。趣味良くなったじゃないか、楓」
親子の会話を交わし、邪魔したねーっと笑うユキの眼が嬉しそうに三日月を模り、次いでにやにやと口元に手を当てながら扉を閉める。
パタン…
扉の閉まる音の後に訪れる静寂。
「え、…え、ぇ、え、え…?」
一体何が起こったのか、全く分からない十時から失われたのは語彙力。非常に珍しい顔色で楓を見上げると、
「はは、親公認じゃん。良かったな、十時ぃ」
「…は?」
間抜けにもぽかんと開いた口をもう一度塞がれた。
そして、昼だ。
「あ、内山田っ!」
「………えーっと」
朝日子の好意でわざわざ作って貰った賄いのカレーを食べていた昼休憩。
勝手知ったる我が物顔で休憩室に入って来たのは、お久しぶりの川添志木。
金髪も夏休みに入ってそのままにしていたのか、だいぶ根本からの黒い髪が割合を占めている。
そんな志木の変わらない相変わらずなムキムキな筋肉を隠すどころか、強調されたTシャツ姿でずかずかと近づいてくる様に、思わず椅子から立ち上がろうと身構えた十時だが、それも素早い動きで封じられてしまった。
がっちりと掴まれたテーブルと椅子。
「おー…久しぶりっすねー…川添先輩…」
何とか引き攣る笑顔でそう言えば、ぎろりと周りを一瞥した志木が十時を見下ろす。
「…楓は?」
「あ、えー、えっと、確かあと10分位で飯、かと…」
スプーンに乗せていたカレーを落としたくはない。汚れる上に、勿体ない。
口に運び、ごくんと飲み込めば、志木から聞こえる舌打ち。
「…お前さ、この間此処に女来ただろ?」
「お、ふ、ふぁ?」
もぐもぐと咀嚼する中、女と言われ思い出すのは、ただ一人。
「あ…楓先輩の、同級生、っすかね…」
「そうっ!そいつだよっ!!」
彩香と呼ばれたあの女性、どうやら正解らしい。
だが、その彩香が志木と何の関係があるのか。はて?と首を捻った、丁度その時。
「何やってんだよ、どけ筋肉馬鹿が」
「あ」
一体いつ来たのか、カレー皿を抱えた楓が登場と共に目の前で無駄に暑苦しく、その上圧まで掛けていた志木がロッカーへと吹っ飛ばされた。
衝撃音と、ロッカーが揺れる音。
備品は大切に、と書かれた紙も揺れている。
「い、ってぇぇ…っ」
そして、呻き声にも似た痛みを訴える声は当然だが、志木から。
「何すんだよ、お前はよぉ!!」
「お前こそ人の店裏で何やってんだ。基本関係者以外は立ち入り禁止だろうが」
何事も無かった様にテーブルにカレーを置き、十時の前に立つ楓が忌々しそうにと志木を睨み付けるも、いててて…っと立ち上がった志木も真向からその視線に睨みをぶつけた。
「別にいいじゃん。消毒はしたぞ」
「そう言う問題じゃねーんだよ。単細胞馬鹿がよぉ」
「まぁ、そこは置いといてだなぁ!」
「置くなよ、持って帰れ、今すぐ」
だが、そこは志木。
話を聞かずに拳を固く握ると苦々しい表情でぎゅうっと眉を潜め、口を開いた。
「楓、お前なぁ。彩香に何言ったんだよ、俺んとこに恨み辛みのメッセージが阿保みたいに来てんだけどぉ!」
「は?彩香?何でお前に」
少し汚れたのか、今日の丸眼鏡を拭く楓からは一つの焦りも動揺も見えない。それが余計に志木の感情を煽るのか、
「知らんわっ!ただ、『楓くんがひどい』だとか、『後輩と一緒になって私を馬鹿にした』だとか、『志木が何とか、言ってーお願いー』『もしかして嫌われたのーやだー心配ぃー』だとか、もう殆ど毎日来るんだよっ」
苛立ちを隠そうともせずに、そう言い放つ。
――――なる、ほど。
ごくっと喉を上下させたのは十時の方だ。
面白い位に汗が流れ出、妙な動悸が胸を打つ。
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