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「先輩には関係無いと思いますよ。十時と別に約束してた訳じゃないんでしょ」
挑発じみた声音とその双眸に、楓もちらりと河野を見遣るも、そんな態度は気にもしていないのか表情一つ変わる事は無い。
「約束はしてないけど、用事はあったんだよ」
溜め息混じりにそう洩らす楓から若干の圧が消え、思案する様に眼を伏せる仕草に同性ながらも見惚れてしまった前原はぎくしゃくと顔を上げた。
「あ、あの、夕方には戻るで、内山田チーズケーキ巡りに行っただけなんで…っ」
「へ?」
「ちょ、何で教えちゃうんだよ…っ」
あっさりと十時の動向を教えてしまう前原の背中に入る河野の手刀。
別に十時本人に秘密にしろと言われた訳では無いのだが、何となくこの眼鏡の上級生に教えてしまうのは癪だった河野の眼が鋭く吊り上がるも、それ以上に一瞬鋭い殺意にも似た剣呑な空気に包まれた。
楓から放たれた、それ。
河野と前原はもちろん、隣に居た志木すらも、びくっと無意識に後退りし、目の前の眼鏡が鈍く光る幼馴染をマジマジと見つめる。
「…ふーん…そう」
だが、それだけをぽつり呟くと、もう此処には用は無いと言わんばかりに踵を返し、すたすたと廊下を戻って行く。
何だったんだ、とその後ろ姿を見送り、ごくりと喉を鳴らした志木は首を傾げた。
あんな風に一瞬とは言え、強い感情が他人相手に出てくる彼は珍しい。
口も悪いし、態度も褒められたものでは無い、今までも当たり前に殴り合いの喧嘩もしてきた二人だが、それでも何処か飄々とした態度は崩さず、己の手の内を見せる様な楓では無かったのに。
何が彼の地雷をぶち抜いたのか。
気になる所ではあるが、
「……え、と、じゃ、和沙…取り敢えずお前の部屋にお邪魔出来るって事でファイナルアンサー!?」
ぐっと立てた親指を河野の渾身の力で捻られた志木の絶叫が廊下に空く響いた。
*****
真っ白なレアチーズケーキは最近口コミで急上昇しているお店のチーズケーキ。
こちらのニューヨークはSNSで女子大生が美味しいと評判になっていたもの。
そして、もう一つは何度か購入した事のある店の新作のチーズケーキ。スフレタイプは初挑戦の十時の胸は期待に膨らむ。
それが、1時間前の事。
15時前には寮へと戻った十時だが誰に見つかる事も無く、自室へと閉じ籠り、テーブルへと本日の戦利品を並べ、ニマニマと至福の時間を堪能していた。
その後楽しみにしていた順に一口ずつ食べる。
チーズケーキ特有のしっとり具合だとか、くちどけの良さ、風味等を味わい、気に入ったものから全部食べる、と言う謎のこだわりで一人品評会の如く過ごしていた十時だったのだが、
(………えー…)
それぞれのケーキを前に苦々しく顔を歪める。
何だろう、この何とも言い難い、不満足感…は。
「や、旨い…旨い、けどぉぉ…」
特にレアチーズは十時の一番好きなチーズケーキだ。
初めて食したのもあり、思い出補正もあるのだろうが、きっとどの種類が好きかと問われたら自信を持ってレアが一番だと言える。
試しにもう一口食べてみれば、ふわりと香るチーズに旨いと頷けるが、矢張りどこか違うと感じてしまうのは何故だろうか。
ネット内の口コミも、『文句なしの美味しさー』『本格的なレアチーズ、一口食べればハマる事間違い無しっ』と称賛されていると言うのに。
どうしても十時の脳内にあるチーズケーキランキングの一位の座にふてぶてしくずでーんと座っているのは、あのチーズケーキなのだ。
(楓先輩が作ったやつだよ…)
しかもご本人が足を組んで嘲笑うイメージ付き。
……………え、何なんだよ。
俺の口の中どうなってる訳?
こんなにキラキラとしたケーキを前に微妙な顔をしなければならないなんて、ケーキに対しても失礼極まりない。
兎に角完食だけでも、と再び手を伸ばした瞬間、
ドンっ
「…え?」
部屋の扉が叩かれる音が室内に響く。
河野かな?位の気持ちでいそいそと扉を開けた先に居たのは、想像よりももっと身長がある男。
「…あ、れ?」
「よぉ、帰ってたな十時」
にこぉっと綺麗な三日月を模る唇と、眼鏡の奥から見える、その眼に反射的に扉を閉めそうになるも、ぐっと堪えて引き攣りそうになる頬を何とか動かした。
「ど、どうもぉ…」
気まずい。
いや、それは気まずいだろう。
所謂抜きっこしてしまってから、一度も顔を合わせていなかったと言うのに此処に来て行き成りの来訪。
照れ臭いなんてもんじゃない、気まずい一択だ。
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