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サブリミナル効果
定期的にこの男から甘い匂いがすると気付いたのは、最近。
しかも夜フラっと出て行ったかと思ったら、数時間経ってから香る事が殆ど。
そして例に洩れずそう言った次の日はまた何処かへと出掛け、戻るのは深夜になる事もあった。
そして今日も甘い匂いを纏い戻ってきた同室者へととうとう声を掛けてみた。
「…お前、最近何かしてんのか?」
読んでいた雑誌を脇に放り、そう問うてみたならば、
「あー…チーズケーキ作ってんだよ」
「…は?」
チーズケーキ?
チーズケーキってあの甘い、食べるケーキ?
何で?
確かに実家は洋菓子屋。
楓がいくつものケーキを作れるのも知っている。繁忙期には店に駆り出されていたのも聞かされてはいたが、何を思って今この寮で?何故チーズケーキを?
まさかの答えだと面食らったものの、そう言えば数週間前にケーキの材料を送ってもらう為の電話をしていたのを思い出した志木だが、思い出した所でその意図が分からない。
「え、何で?」
全く持って分からないのだから、ストレートに。
そんな小首を傾げた所で可愛くもない姿をちらりと一瞥する楓だが、何を言っているんだとばかりに肩を竦めて見せた。
「お前、河野と付き合いたいんだろ。だったら十時を僕の方に向けさせないと、って…このやり取り何度目だよ、いい加減にしろよ」
「え…いや、つか…あの二人付き合ってなさそうだし、内山田の方もどうみたって河野に気がある素振りなんてないし…」
だから、その計画はもういいかなーと言う事で、と続けた志木にふんっと不遜に笑う楓はソファへと腰を下ろすと嫌味な程の長さを持つ足を組んだ。
「だから?河野が十時を好きになって本気出してからじゃ遅いんだぞ、お前」
「……へ?」
「十時は何だかんだ口では言ってても甘いんだよ。放って置けないって言うか、お人好しって言うか。それに漬け込んで河野和沙が迫ってみろ」
「……アイツ、推しに弱い、とか、」
「弱いどころじゃねーよ。しかも流され易いしな」
それだけ言うと途端に渋い顔をする志木にくすくすと笑う楓は矢張りいつになく楽しそうだ。
「でも、だからって何でチーズケーキなんだよ。アイツ吐く程チーズ嫌いなんだろうが」
「チーズケーキは別もんなんだと」
何だそりゃ。
(チーズ食えねーのに、チーズケーキは食えるのかよ)
面倒な奴だと思うものの、その面倒な相手をいつまでもこの綺麗な幼馴染に相手させるのも気が引けると思うのもまた事実。
大体楓は男からもモテはするが、付き合う相手は女のみ。
今頃になって罪悪感に苛まれるのは、自分の為にケーキを作るなんて事までさせているからだ。
(でもなー…だからこそ、楓が作ったチャンスを生かすべきなのかー?)
そんなに賢くもキャパもある訳では無い頭を、うんうんと捻りながら唸る志木を横目にぺろりと舌を出す楓の意図なんて、誰にも分からない。
(いや、まっじでわかんねぇー…)
ブルーベリーたっぷりのチーズケーキを食し、悶え転げ回ったのはつい30分程前の事。
しかも今回は製作時から見せてもらう事が出来、チーズケーキの香りに包まれ、嗅覚的にも視覚的にも至福を味わい、味覚までも。
そして、今自室のソファの上。
「十時ぃ、僕の眼鏡外して」
「………あ、の、」
「眼鏡」
「……はーい」
何故隣に座る楓の眼鏡を外し、そのままキスを受ける羽目になっているのだろうか。
ちゅっちゅっと何度も目元や頬に唇を当てる楓を薄めながらも訝し気に見詰める十時の脳内では未だハテナマーク絶賛栽培中だ。
出来たら近所へとお裾分けしたいくらいに出来上がっているのだが、生憎消化してもらえるであろう相手がこの目の前にいる馬鹿みたいに綺麗な男しか居ない。
だが、流石にこの状態で、
『あの、何で俺にキスしてるんすかね?』
と問うてもいいものか。
いや、それ以前にチーズケーキだって…。
(何で作ってくれてるんだ?)
運命的とも言える楓のチーズケーキ。それを時間を使って制作し、尚且つ自分の元へと運んでくれるのは素直に嬉しい。
銀行口座を教えて頂きたいと思える程。
けれども金を取る訳でも、何か対価を求めてくる訳でも無く、こうやってキスだの、たまにぬいぐるみのように抱かれたりと、彼の意図が全くもって分からない。
しかも、大変困った事はこれだけではない。
(…まっずいわー…)
この行為が気持ち良くなっていると言う、事態に。
元より恋愛経験どころか、彼女が居たことも無い十時にいくら男とは言え、この無駄に整った顔は強い。
睫毛長いですねー、だとか、鼻筋が整形レベルで通ってますねーのレベルでは無く、全てのパーツが最高級仕上げ。しかもバランスも黄金比。
口も態度もクソ程悪いが、放つ雰囲気と言うか、フェロモンは良くも悪くも人を惹きつけるそれで、十時の様な経験値も無いに等しいチョロい人間には効果があり過ぎる。
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