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一枚に賭ける
鍵を開け、扉を閉める。
ゆっくり閉めたつもりだが、パタン…っと小さく音が鳴ると共同リビングから顔を出したのは同室者だ。
「…お前、また朝帰りかよ」
「あれ、志木。お前にしては早いな」
「便所に起きたら、この時間だったんだよ」
「ふーん」
彼が起きるよりは一時間ほど早いこの時間。
二度寝しようにも想像以上に脳も身体も目覚めてしまったのだろう。
ポットにスイッチを入れ、インスタントコーヒーを入れるカップは二つ。
「お前も飲むだろ?」
「おうー…って、いや、つか楓さぁー」
どさっと深く座ったソファからこちらを見る志木に楓がちらりと視線だけを送る。
「お前、もういいぞ」
「何がだよ」
「だーかーらぁー、もう内山田にアプローチしなくてもいいって事だよっ」
カチっと鳴る音。
ポットが湯を沸かしたのを知らせ、楓はカップへと注ぐ。
「もういいって、何?」
「何、お前耳悪くなってんのかよっ!内山田の事だって!」
「十時が何?」
コーヒーの入ったカップをテーブルへと置き、ゆうるりとソファに腰掛ける楓へいい加減苛立ちが募る志木の額に浮かぶ青筋。
「だから…っ、もうさ、俺の事考えて内山田のとこに行ってんだろっ。内山田を自分に惚れさせよう、って!それを、もういいっつてんだよっ!」
「その真意は?」
眼鏡を曇らせながらカップを口元へと運ぶ楓は落ち着き払った態度だ。
そんな冷静な彼の姿に志木から珍しく溜め息が洩れた。
「何か、やっぱ和沙と俺をもっと親しくさせる為に十時の相手させるっつーのはやっぱ違う気がしてな…」
はっきり言って、この幼少期より美貌の塊として生きている幼馴染が自分の事を色々と考えてくれているのは知っている。
口もクソ程悪いし、手も早い。
何か気に食わない事を言われたら、次の瞬間吹っ飛ばされた事だって一回や二回ではなく、その度に殴り合いの喧嘩だって何度もしてきた、が。
楓が自分の我儘でこの学校へと着いて来てくれる程に優しい男だと言う事も痛い程理解しているのだ。
空手までは戻ってくれなかったが、それでもせめてものお詫びにと、この学校へ来てくれた幼馴染。
本来ならここ迄してくれたのだから、これ以上望んではいけなかったのに、自分の不用意な一言がいけなかった、と志木は項垂れる。
「俺が…アイツをたぶらかせ、って言ったから…いや、だってさ、お前がそこまでしてくれるとは思わなかったからさー。女としか付き合わないの知ってたのに、頭に血が上って、ついつい…」
「…それで?」
「やっぱさ、内山田見てると和沙に対してそんなやましいだとか邪な気持ちは無い様に見えるからよー。だったら、もうここは俺の頑張り次第で何とかなる気がしてんだよなっ」
その自信は一体何処から。
コイツの場合は筋肉からだな、と思いつつも言葉には出さない楓はわざとらしい溜め息を吐くと、また一口コーヒーを含んだ。
「まぁ…そうだな。そろそろ僕も十時にはちょっと後ろめたい所あったからな」
「だろっ!だから、もう気にするな。どうせ、お前の事だから上手い事やって、アイツとどうこうなってるとは思わねーけど、引くに引けなくなったら困るのは楓の方だし」
鍛えられた腕を組む志木は真っ直ぐに前を向き、一人そう頷く。
曇り一つ無い、その眼。
「あぁ。ちゃんと、言った方がいいかもな」
ふっと息を吐きながら、少し冷めてしまったコーヒーを一気に流し込んだ楓はそんな志木に向かって、もう一度ニコリと笑った。
「さて…どうしたもんかな…」
ーーーと、少しだけ眉を下げて。
*****
スマホ画面を見詰める姿はまるで両親から初めてスマホを貰った子供の図、と言うもの。
ニマニマと液晶に映し出された名前を眼で追う。
ーーー十時
そう、それだけの名前だが、河野はむふふっと頬を染めると隣の席を一瞥した。
きゅっと上がった眦は猫を連想させるそれ。
目付きは悪いかもしれないが、高校生になってから初めて達樹以外に出来た、友人、だ。
もう来週は夏休み。
長期を利用して、何処かゆっくりと遊びに行く計画を立てている河野はようやっとここに来て連絡先を交換する事が出来た。
十時曰く、
『あーそう言えば連絡先交換してなかったな…。何かそんな事しなくても良い程一緒に居たからなぁ』
なんて言われ、それはそれで妙な感動を覚えたのだが、矢張り何だかんだ連絡先を知れたのは嬉しい。
(そうだよ、これで夏休みの宿題も一緒にしよう、って言えるし)
バイトがあると言っていたが、いつでも日程が確認出来るのだから、そんな遣り取りを想像するだけでもウキウキと心弾ませる河野は早速アプリにも登録。
(達樹も入れてグループにしようっと…)
これでいつ夏休みが来ても大丈夫だ。
幸いテストも赤点は無かった、心置きなく夏を堪能出来る。
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