一枚に賭ける

3/33
3225人が本棚に入れています
本棚に追加
/175ページ
***** ――バイト初日。 ドキドキと緊張を抱え、楓から事前に教えて貰った洋菓子店は住宅街にある、一見甘いお菓子を売る様な店には見えないシックな外装。外壁も焦げ茶色なら扉に至っては真っ黒なそれに、思わず何度も確認した程だ。 目立つ看板も無く、扉の近くにあるブラックボードにチョークでles bijouxと書かれてあるだけ。 だが、どうやらここで間違いは無いらしい。 大きく深呼吸をし、十時はその扉を押した。 「おはようございまーす…」 勿論挨拶も忘れない。 恐る恐る中に入ればすぐに甘い匂いが鼻先をくすぐる様に香り、それだけでここが洋菓子店であると言う謎の安心感が溢れ肩の力が抜けて行く。 「あら?」 そんな十時に気付いたレジの前に居た従業員らしき女性がくるりっと眼を動かすと、すすすすっと近づき、ぽかんとしたまま見詰める事数秒。 黒のワイシャツに黒いエプロン、栗色の長い髪をくるりと一つに纏めているその女性を前に、居心地の悪さを感じる彼が口を開こうとした瞬間、 「えーっ!やだぁ、楓ちゃんのお友達って言うから、もっと厳つくてゴツめのかな、とか、耳とか眉が穴だらけのクレーターみたいな子が来るかと思ったらぁ!普通っ!新鮮っ!!」 恐ろしい速さで間合いを詰め、ぎゅうっと握られた両手。 女性特有の可愛らしく小振りで柔らかい感触に、ぽわっと頬を染める十時だが、 「初めまして、私楓ちゃんの母をやってます。滝村朝日子(あさひこ)ですっ、朝さんとかヒコさんとか好きに呼んでね」 にっこりと微笑むその姿にぎょっと眼を見開いた。 (楓…先輩のお母上…) 確かによく見れば、涼し気で少し垂れた目元が良く似ている。笑った時にくしゃりとなる目尻も遺伝子の強さを伺わせた。 身長は女性から見ても低め、スレンダーな体付きながらも大人の女性に見えるのは出るとこ出たメリハリボディと言うやつなのかもしれない。 「ど、どーも…楓先輩からの紹介で…お、お世話になる内山田十時、です…」 「ととき?ととき君ってどんな漢字で書くのかしら?」 「十時、って書いてととき、です…」 「そうなのー、珍しいけど響きが好きなお名前だわー」 ふふふっと無邪気に眼を細める姿にふいにドキリとし、照れ臭いのも相まり、はにかんだ笑みを浮かべる十時だったが、その首に腕が引っ掛けられ、ぶぇ、っと潰れた様な間の抜けた声が喉の奥からまろび出る。 「おはよー、十時」 「あ、」 振り返ってみれば、予想通り小さい丸眼鏡を掛けた楓がいつものニヤリとした笑みで立っていた。 いつもと違う所と言えば、見慣れない白い調理用の作業服、そして長めの前髪をきちんとヘアピンで止められ、御尊顔がいつも以上に御開帳。 普段から綺麗な顔だとは思っていたが額にニキビ一つ無い、つるりとした肌に見惚れた十時の喉が鳴る。 「おはようございます、先輩…」 「迷わず来れた?」 「は、はいっ」 ふーん、と笑う楓を見て、釣られた十時もへらりと口元を緩めた。 「朝さん、取り敢えずコイツ着替えさせるから」 「はいはい、着替え裏に置いてあるから。完了したら早速お手伝いしてもらいましょー」 ニコニコと微笑む楓の母に一礼し、楓から手を引っ張られる形で店内の奥へと。 連れて行かれた先は清潔感のある真っ白の壁紙の小さな部屋。ロッカー室らしく、従業員用らしきロッカーが壁一面に設置されている。 「十時、ここ使って」 「あ、有難う御座います」 その中の空きロッカーなのだろう。 指されたロッカーへ近づくと中には黒いワイシャツとスラックス、エプロンがビニールに入った状態で置かれてある。 (これに着替えればいいって事?) 「先輩、これ、…っ!」」 間違っててはいけない。一応お伺いを立てるべく、くるりと振り向いた十時だが、予想以上に近くにあったのは楓の顔。 しっかりと睫毛の一本一本まで見える程近付いていたとは。 「な、なんで、す、か…?」 「んー。キスしようと思ったんだけど」 少し唇を尖らせて拗ねた声音でそんな事を言う楓にまた喉からくぐもっと音が出てくる。 「駄目な訳?」 「い、いえ…だい、じょ、」 大丈夫です、そう言いたい。 アンタが、したいなら、そう言った意味合いを含めて。 けれど、ぐぅぅっと喉が詰まる感覚に結局十時から出てきた声は、とても小さいもの。 「お、れも、したい、です、」 この真夏の中、駅から歩いてきたから、と言う嘘は通用しない真っ赤になった顔でぎゅうっと目の前の白い作業着を掴めば、頭上から笑う声が聞こえた。 「お年頃だもんなぁ、僕達」 勝手に言ってろ、笑ってろ。 半ばヤケクソ気味に歯を食い縛り、顔を上げれば面白いと言わんばかりにニヤニヤと笑う楓の姿が、 ーーーーーあると思った。 が、 「いっ…!」 ドンっとロッカーに押し当てられ、背中に走る痛み。 一瞬何か機嫌を損ねる様な事をしてしまっただろうかと慌て怯んだ十時の顎が掴まれ、自然と開いた唇に楓の唇が当てられた。 いや、当てられたなんて可愛いモノじゃ無い。 食われる、と思うくらいに噛み付く様な、それ。
/175ページ

最初のコメントを投稿しよう!