一枚に賭ける

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洗い物も結構な量だ。 ボウルも大中小様々なら、トレーも一気に数個。 調理器具も泡立て器から始まり、ゴムベラ、木ベラ、ドレッジと呼ばれる生地を平にする為にもの、ナイフも数種類。 洗ったと思ったら次の洗い物。 このままずっと一日終わるまで洗い物で終わってしまうのでは、と思ってしまったくらいだ。 キラキラと完成したケーキを店内に運ぶのも必要以上に気を遣う。 これを持ったまま転倒なんてしたら…と嫌でも脳裏を過ぎったが、落とす事も転がる事も狙撃される事も無く、皿一枚割る事も無く、一日何とかこうして終える事が出来た。 時刻は既に17時。 店は楓の母だけで対応できるらしく、お疲れ様ぁ、っとペットボトルのドリンクを貰った十時は初バイト、本日は終了だ。 「えーっと、十時君だっけ?朝は忙しくて挨拶出来なかったけど、お疲れさーん」 裏のロッカー室にあるソファにぐったりと背中を預けていた十時に声を掛けてくれたのは、ここの従業員である倉本と言う男だ。 帽子を脱ぎ、さっぱりとした茶色の短髪をガシガシと掻きながら白衣を脱ぐ姿に急いで立ち上がった十時もぺこりと頭を下げた。 「お、お疲れ様です」 「疲れただろ。意外と肉体労働で驚いた?明日は筋肉痛になるかもな」 あははははと大口を開けて笑う姿は豪快だが、こう見えても彼は飴細工が得意らしい。 ケーキのデコレーションとして飾られている飴の殆どが倉本が作製しているらしく、あの繊細な細工がこのごつごつと節張った指から作られるとは想像も出来ない。 「いやー、うちの従業員二人がフランス、オーナーまで着いてくわで、どうなるかとも思ったけど、時間短縮、個数制限で乗り切れたわー」 本来ならば授業員二人だけが二週間のフランス留学だったらしいが、楓の父であるオーナーも我が思い出の古巣だ!と言う理由で先頭を切って出て行った、らしいのだ。 自分の店から二人も居なくなると言うのに、店のオーナーでもある自分までも。 流石は楓の父と言うか、大胆すぎる豪傑ぶり。 尤も、それを許してしまうあの楓の母のおおらかさ、この倉本の敏腕さがあってのものだろうが。 ちなみにオーナーは五日ほどで先に戻ってくるらしいとの事だ。 「まぁ、坊が手伝ってくれたし、こうやってバイトも連れてきてくれたし、良かったよ」 「少しは役に立ちましたかね」 あっという間に私服に着替えた倉本は十時の言葉に一瞬パチリと瞬きすると、またニカっと笑うとその頭をぐりぐりと撫でつけた。 「大丈夫だってぇー!お前結構力も強いし、手際も良かったぞー」 「そ、そうですかね、それなら良かったですけど、」 「おう、自信持てぇ」 少し皺が目立つ目元が人の良さそうな雰囲気を醸し出す倉本に十時もようやっと、口元を緩め、有難うございます、と礼を言えば、ガチャリと扉の開く音が室内に響く。 「倉本さん、お疲れ様でーす」 こちらも白衣をすっかり着崩し、前髪を止めていたピンを外しながらのそりと入ってきた楓。髪にすっかり癖が付いてしまっているが、本人も気にする事無く、手櫛で纏めていると倉橋も軽く手を挙げた。 「よぉ、坊。お疲れぇ」 「明後日の分の発注書はファクスしたから、大丈夫っすよ」 「お、さっすがー。じゃ、今日は上がるぜ、俺」 またな、ともう一度十時の頭を撫でるとひらひらと手を振りながらをタイムレコーダーにカードを突っ込むと、今しがた楓が入ってきた扉から軽い足取りで帰って行く。 着替え時に左手薬指に指輪を嵌めていたと言う事は既婚者、または恋人が要るのだろう。 その後ろ姿を見送り、次いで十時はこそりと視線を楓へと。 白衣を脱ぎ、シャツを着替える楓の裸体をしっかりと見るなんて初めてかもしれない。 程よく筋肉の付いた、意外とがっしりとした肩や背中。 何だか居た堪れない気持ちが、ぐわっと十時の心臓を掴み潰さんばかりに溢れ、ぎくしゃくと顔を逸らし、手に持っていたペットボトルをコロコロと転がす。 (いや、でも…まぁ…) 今日一日ずっと見ていた訳ではないが、矢張りこの男の手際は素人目から見ても凄い、と感心してしまった。 倉本と引けを取らない無駄の無い動きは勿論、クリームのデコレーション一つにしても正確な手付きで機械を見ている様な気分にさせられた。 そして、これまたそんな姿が、 (滅茶苦茶かっこいいよな…) 多分姿勢の良さがそれを増長させているのだろうが、それでもきっと十人が十人、楓のその姿を見たのならば、きっと同じ感想を思うだろう。 十時自身、純粋に男として憧れる。 それは顔がいい!だとか、長身、脚が長いっ!だとか、そう言う妬み僻みもあるけど、それ以上に楽しそうにケーキを作り上げる姿が一番目を引くと、言うか。 普段の軽薄そうな表情なんか一つも無く、真っ直ぐにそこだけを見てケーキを作り上げるその姿に、初めて楓からチーズケーキを作って貰った時の事を思い出したのだ。
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