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でも、何故だろうか。
侮蔑じみた女性の眼が原因なのか、むぅっと頬を膨らませて地団駄を踏む『あっち』の方が可愛らしくみえてしまうのは。
「お待ちください…」
が、しかし。
客であるのならばそれなりの対応でないといけないのだろう。
一応取って付けた様な愛想笑いを浮かべた十時は、裏に向かって声を掛けた。
「楓先輩、ちょっといいですかー」
「はぁ?何、僕明日の仕込みしてんだけど」
億劫そうなその声音にひやりとしたのは十時の方だ。
まずった、言い方が悪かったと思っても後の祭りだ、わっしょいと言うもの。
裏から出てくるなり当たり前の用に十時の肩に腕を回す楓は、十時以外の人間が此処に居るとは思っていなかったようで。
「せ、先輩、すみませんっ、客、お客さんですっ、御指名なんですよっ」
「客?」
焦った十時が無駄に近づいてくる顔を恐れ多いながらも押しのければ、ようやっと楓もふっ店内へと視線を巡らせた。
「……あぁ?」
「楓くん、こっちぃ」
ここのどのケーキよりも甘いかもしれない声は先程の女性から。
ガラスケース越しにぐいっと身を乗り出し、むぅっと唇を尖らせて楓を上目遣いに恨めし気に見上げるが、
「帰ってたんなら連絡してよぉー。一緒に遊ぼうね、って約束したじゃない!」
「はぁ…?してねぇよ」
当の本人はしらっと首を傾げ、眼鏡を持ち上げている。
「してたじゃーんっ、私のメッセージも全部無視してるでしょー!ひどいよぉ
ー」
さて。
「………」
このほんの数秒間の間に十時の脳裏に浮かんだ事と言えば、ただ一つ。
―――自分が居ていい空間ではないのかもしれない。
この二人の関係が一体どういうものか分からないが、河野や志木と自分は違う、空気を読む事は出来る。
面倒そうな事を観覧する趣味は無い。そろりと楓から距離を取り、そのまま壁に背を付け裏へと入り込もうとした瞬間、
――――ダァンっ
こちらを見もせずに放たれた長い腕が十時の顔面すれすれに壁へと当てられた。
その振動が壁から伝わり、ひゅっと不可解な音が喉から出てくる十時にまでじぃーんと響き渡ると、流石に固まる身体。
ひくっと引き攣る頬が情けないものの、
「何処行くんだよ、十時。お前バイト中。店番だろーが、あぁ?」
「……す、みません」
それを言われたらごもっとも。
低いそれに従い、こくこくと頷きながら、再び定位置に就くと取り合えずショーケースに並ぶケーキだけを見詰める事に集中。
数はだいぶ減ってしまっているが、キラキラといつみても宝石の様な菓子達。
その中にあるチーズケーキはかなり地味で目立たないものの、見ているだけでもその落ち着いた色合いに心が落ち着きそうだ。
落ち着きそうだ…けれども、だ。
「ねぇ、楓くん。外でちょっと話そうよぉー」
「無理。僕今店手伝ってんの。見て分かるだろ」
「えーちょっとだけぇ。この子バイトでしょー。店番居るんだからさぁ」
「お前うるせえ。僕はお前と話したくないって空気感出してるの分かんねーの?」
ぞく…っと底冷えする声音に瞬時に場の空気まで凍らせた。
自分が言われた訳でも無いのに、蒼褪めた十時ともろに喰らった、その女性。
ぽかんと口を開け、しっかりとコーティングされた睫毛と共にきゅっと眼を見開くが、流石に肉食系を感じさせる猛者。
「ひ、ひどいっ!そんな言い方しなくてもいいじゃなーいっ!私楓くんが帰ってくるの待ってたんだよぉ!夏休みに遊んでくれるって言うからぁ!」
甲高い声を店内に響かせ、べたべたと遠慮容赦なくガラスのショーケースに指紋を付けてくれる。
後で拭きあげておかねば…。
それを見下ろし、ついでに消毒もだ…と独り言ちる十時は他に客が居なくて良かったと改めて安堵の息を吐く。
しかし、この調子ではこの女性泣いてしまうのでは?
そのタイミングで客が入ってきたりしたら?
そんな危惧を抱くも、隣の眼鏡の男はそんな事どうでもいいらしい。
「うっせーなぁ。僕はお前の誘いに返事はしてねーだろうが。無言を肯定だと受け取ったお前の勝手に何で僕が付き合わなきゃいけーんだよ」
いっそ、すっぱりと清々しいまでに叩き切ってくれる。
「大体メッセージ無視されてる時点で気付けよ。まじでウザい」
そう、すっぱり、ざっくり…。
楓に向けていた視線をゆっくりと女性に向ける。
ふるふると震えながら、折角可愛らしくメイクした顔を歪め、唇を噛み締めるその姿。
(おぉぉ…もう、何と…言っていいのやら…)
どうしようもない。
この場では自分は無力だ。
けれど、このままでは流石に後味が悪くないか。
自問自答の末、十時は楓の服をほんの少し握りしめ引っ張ってみる。
「あ、の、先輩…」
「何、十時」
「その、やっぱ一度外で話した方が、」
いいのでは?
と、その言葉が紡がれる事は無かった。
「黙ってろよ。お前、僕の恋人だろ?その女早く出てって貰え」
今すぐに。
「…え」
「…は?」
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