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な、
(なんだ、って…)
―――この人何を言った?
信じられないと言った眼で楓を見遣るも、それは此方も同じ。
「え…え、は?楓くん?え、こ、いび、と?え?」
ほら見ろ、分かりやすく動揺されている。
楓と十時を交互に見つめる女の目が明らかに泳いでいるが、何か思い付いたのか、あっと口を開けるとふふふっとぎこちなく笑い出す。
「や、やだぁ、楓くん、そう言う冗談とか言う様になっちゃったのぉ、もーやだぁ」
巻いた髪がふわりと揺れ、またずいっと胸をショーケースへと押し付ける女は楓へと手を伸ばした。
「もう、そう言うのいいからー。じゃ、終わるまで待ってるから待ち合わせしよ?」
首を傾げる姿は可愛い。
可愛い、
(可愛い…、けど、)
「十時」
「は、いっ」
ずいっと楓を自分の背後へと隠す様に前に立ちはだかった十時は、伸ばされた手にストップを掛けた。
「あの、すみません…先輩、今仕込み中で…その衛生上よろしく無いので…触れないで頂きたいんですが…」
咄嗟に思い付いた苦しい言い訳だが、事実でもある。
仕込み中の楓に外から入って来て消毒どころか、洗ってもいない手で触るとか。
素人の十時でもそれくらいは理解出来ると言うものだ。
背後ではわざとらしい溜め息が聞こえたが今は聞こえない振りを貫くしかない。
「は、はぁ?邪魔しないでよぉ、私楓くんが帰ってくるの、ずーっと楽しみにしてたんだからぁ」
ぎりぃっと前から睨んでくる女と背後から圧を掛けてくる男。
踏んだり蹴ったりもいい所だ。
(ただバイトをしているだけだったのに…)
まさか、前門の虎後門の狼を身をもって体験する事になるとは。
「そー…みたい、ですね、」
「あんた楓くんの高校の後輩?知らないなら教えてあげるけどぉ、私は楓くんの中学時代の同級生なのー。ずっと一緒に遊んで来たんだからー」
「へ、へぇ、そうなんですか。で、でも今日は取り敢えず、まだ店も閉店まであと少しあるんで…」
「だからぁ、待ってるからぁ、ね、いいでしょ楓くん」
すごい。
女性の力とは時にすごい。
否定されていると言うのに、此処までぐいぐいと迫る事が出来るとか、ある意味尊敬に値する。推しの強さだけで言えば、そこらのベテラン営業マンよりも好成績を残せそうだ。
だが、しかし。
(いい加減分かれよっ…!)
頭はあまり宜しく無い様だ。
何故なら気付かないから―――。
どんどんと楓の機嫌が低下している事に。
夏の暑さも気にならない程に程よく冷えた店内なのは確かだが、それ以上に背後の空気が凍りつく程に冷たい。楓に濡れタオルを振らせたらきっと凍り付き、釘が打ててしまう。
何をされると言う訳では無いのだろうが、想像すると恐ろしいしか無い。
なるべく穏便に解決したいと思う十時の気持ち等しってか知らずか、恐らく後者。
「大体あんた何なのぉー。恋人とか言われちゃってるけど、親しい後輩なの?楓くんを慕っちゃってる系?だったら、正解だけどぉー、やってる事は不正解だからねっ」
「………いや、あの、」
―――穏便に、
「もー分かったわよぉ。じゃ、あんたも一緒に遊ぶ?私は別にいいよぉー。他に女の子の友達呼んでもいいし」
此処まで来て十時も流石にぴくっと眉根を寄せた。
「あ、でも残念だけどぉ、私は楓くん一筋だからー」
ふふふっと肩を竦めて、指に髪を絡ませる女は『きゃー言っちゃったぁ』と頬を染めるがチラチラと十時の方、いや、正確にはその後ろの楓に反応を求める様に視線を送るが、
「…え」
その楓がキスをしている。
トレードマークの眼鏡を外され、がしっと頭を掴まれて、何処の誰とも分からぬバイトの男と―――。
「…っ、は、え?」
単語すらも出てこない程の動揺を感じ取り、十時は口付けていた楓から身を離すと、その三白眼を活かしながらぎろりと睨み付けた。
「はい、これでいいでしょ。俺と先輩は付き合ってるんですよ。恋人どーし、ですっ」
分かったらお帰り下さいっ
しっかりと眼を見据えて、そう告げる十時に女も一瞬たじろぐも、すぐに拳を握り、何か言おうと口を開いたが、そこで気付く。
楓が何も言わない。
男にキスをされたと言うのに、嫌がる素振りも、動く事も無い。
いや、それどころか、楓の手はさりげなく十時の腹へと回されている。
そして、
「なぁ、僕ら恋人同士な訳よ。僕の彼氏嫉妬深いからさぁー。帰ってくれる?」
困ったもんだと言わんばかりに眉を下げるが、その口元はしっかりと上がり、浮かべるは満足そうな笑み。
「あー何か盛り上がってきた。十時もう一回ちゅーしょ。べろちゅーがいい」
「店先っすよ…」
しかも、
投げられたトドメ。
「ーーーーーは…?」
呆けた女の声だけが、ただ虚しく店内に響いた
*****
自己嫌悪で豆腐の角に頭をぶつけて記憶を抹消したいと切に願う。
帰り道の途中でもいいから豆腐を持った人間が自分の頭に当ててくれないだろうかと。
「何凹んでんだよ、十時」
「………」
この男では駄目そうだ。
答えは簡単、何故なら元凶だから。
目元に溜まった涙をぐすりと拭いながら休憩室のソファで丸まる十時は膝に顔を埋める。
「俺…何て事したんだ…マジで…」
「はぁ?何、お前まだそんな事言ってんのかよ?くだらねーなぁー」
くだらない?
いや、くだらなくはないだろう!
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