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言うべきだった言葉
高校までと違って、大学での人間関係は希薄なものになりやすいとされている。
サークルに所属し、あるいはゼミなどが始まってそれなりに親密な関係を築く相手ができればその限りではないが。基本的に大学には高校までのように“クラス”というものがないし、一人で好きな講義を選んで受講するのが基本ということになってくる。当然、いつも隣に同じ人間が座るというわけでもない。
それを寂しいと思う者もきっと少なくないだろうが、少なくとも僕にとっては気楽なことだった。元々高校でも、一人で静かに本でも読んでいる方が性に合っている質である。余計な人間関係に縛られる必要もない、大学二年生の夏。ゼミが始まるまでは、こうして一人気ままに学業に専念できると思うと非常に気が楽であると思っていた。それは、ただ一人でいるのが気楽なだけではなく、高校三年のクラスで壮絶な虐めを経験したからという理由もあるのだけれど。
――いいよな、大学生。ずーっと大学生でいたいわ。
午前の講義から午後の講義までしばし時間がある。適当なところで本でも読みながら時間を潰そうと思い、僕はキャンパス内をてくてくと歩いていた。今日は良い天気だ。夏の始めとはいえ、風があるので木陰ならだいぶ涼しく過ごせる。ベンチでも空いていないかと思って目を配っていた時、僕は一人の女性の存在に気づいたのだった。
彼女は木陰のベンチで、まるで影に溶け込むように佇んでいた。涼しげな桃色のロングスカートから、透けるように白い足が覗いている。長い黒髪の、まるで絵画から出てきたような美しい女性だった。隣に茶色の手提げ袋を置いて、カバーをかけた文庫本を手元で広げて読んでいる。同類の気配を察知――したのもあるが。あまりにも風景と同化していて、それこそ一枚の絵画を見ているかのようで。僕はしばらく、彼女の姿に釘付けになってしまったのだった。
「……?何か?」
やがて、彼女は僕の視線に気づいて顔を上げた。思った通り、影を落としそうなほど長い睫毛に、キラキラした黒曜石のような瞳。ドキドキするほど、綺麗な人だ。
「そ、その、あの!あんまり綺麗だからつい見とれちゃって!」
基本、僕は嘘がつけない質である。ひっくり返った声で、つい余計なことを言ってしまう。
「その、この大学の人ですか!?今まで見かけたことなかった気がするんだけど……!」
「……四年生で、あまり講義を取ってないから」
「そ、そうなんだ、えっと、えっと……!」
どうしよう、会話が続かない。というか、いきなり初見でこんな風に声をかけられて、不審に思われないなんてことはないはずだ。いくら、お互い同じ大学の生徒であると言っても。こういう時、生来のコミュ障が邪魔をするというものである。
それでも僕が、無理にでも話をしたいと思ってしまった理由は一つ。一目惚れしてしまったからだ、完全に。
「……私は、秋穂。秋に、稲穂の穂で、あきほ」
彼女はすっと文庫本を閉じて、立ち上がった。ああ、そんなちょっとした所作さえ絵になる人だと思う。
「貴方は名前、なんていうの?」
そう、だから。
名前を訊かれただけで、嬉しさと興奮から気絶しそうになった自分は、ちょっと笑えるくらい情けないと思いうのである。
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