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ここは人里離れた鄙びた温泉旅館。
月のない夜闇に響くは、涼やかな虫の声。
風呂から戻ると部屋の中から聞きなれた声。なぜか誰かと話しているようだ。――なぜなら、聞こえる声は一人分。
「うん、そうか」
男はため息を落として襖を引いて部屋の中へ入る。
――またしても厄介事を持ち込んだらしい。
一人で留守番をしている青年は渋い顔の男に気づいているだろうが、こちらを振り返りもしない。
「そりゃ、しゃあないな」
よほど面白い話をしていたのだろうか、腹を抱えて笑っている。
「よほど面白いことでもあったか?」
後ろから掛けられたのは少し呆れた冷たい声。
「――啓ちゃん」
青年は目の端に浮いた涙を拭いて振り返った。
啓ちゃん、と呼ばれた男はそんなかわいらしい雰囲気ではない。
癖のない黒髪に冷たく見下ろす切れ長な目は射干玉色。名前を高瀬啓一郎という。
対し、笑い転げていたのは栗色の髪に鳶色の目の人懐っこそうな青年。
彼は天野京介。
啓一郎は普段から黒っぽいスーツ姿。それが今日は旅館の藍色の浴衣だ。
相棒の普段とは違う姿に京介は何か言いたげに目を細め、口元を緩めた。
それに気づいて露骨に嫌そうな顔になる。
「なんか、いつもと違って、こういうのもいいよな」
斜めに見上げて笑う顔は、幼い子供か尻尾を振る子犬のよう。
「で、壺と話して楽しいか?」
茶化すでもなく啓一郎が真顔で問うた。
困ったことに、それは比喩でも何でもない。
京介が向かい合っているのは床の間に置かれた古びた壺。
それはコロンと丸い躯体に極彩色で描かれたのは縁起のよさそうな菊と鶴。
剥げかけった金箔が年月を物語る年代物。――いわゆる骨董品。
口縁の辺りがちょっと欠けているのがいかにもご愛嬌。
京介もそういった骨董に詳しくはないが、素人目にも年代物のいい品物だと分かる。
「いやぁ、面白かったよ。こいつ」
くるりと京介が体ごと啓一郎を振り返り、背中を指さして屈託なく笑う。
返事の代わりに啓一郎は鼻を鳴らすと、京介の向かい側に座る。
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