例えば、こんな休日

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【桶川】 表札の下にあるインターホンを一色は躊躇いもなく押した。 しばらくして昨日と同じ割烹着を着たおばぁさんが一色を出迎えた。 「突然申し訳ありません。昨日こちらを引き取らせて頂いたものですが、解決致しましたのでそのご報告にあがりました」 桐の箱を見せるとおばぁさんはしばし逡巡した後にこちらへどうぞ。と一色を敷地に入れた。 12畳ほどの客室へと通されて下座に置かれたふかふかの座布団の上に腰を下ろした。立派な床の間には龍の掛け軸があり、縁側の向こうにある中庭には小さな池があって獅子落としがカコン、と小気味良い音を立てる。まるでドラマや漫画に出てくるような絵に書いたよつな造りだった。 「お待たせして申し訳ない。君が橘のところの…」 「一色悠人と申します。橘とはお知り合いですか?」 襖が開いて現れたのは濃紺の着物を着た恰幅の良い40代くらいの男性。漆が塗られた綺麗に光る机を挟んで一色の向かいに座りながら軽く首を横に振った。 「直接接触を持ったことはないが、こういう仕事をしていると曰く付きの人形の話を聞くこともあってね。この界隈で彼は有名なんだ。ああ、紹介が遅れたな。当主の桶川浩継だ」 「ご高名は兼ねてから承っております」 桶川浩継、有名な日本人形の作家。桶川家といえば江戸時代から日本人形を作っている家系として有名で、その歴代の中でも初代と等しく優秀だと言われているのがこの人だ。若くして総理府付黄綬褒章を受賞し、天皇陛下にも人形を献上している日本でトップの実力と経歴を持つ。全て今朝コーヒー片手にウィキペディアで調べた情報だが。 「噂とは違いしっかりした社員もいるんだな」 そこはかとなく馬鹿にされているが今現在馬鹿にされているのは橘なので反論もなく愛想笑いを浮かべる。 「こちらも、先生の作品ですか?」 桐の箱をすっと差し出す。ちらりと視線を向けてから忌々しげに顔が顰められた。 「ああそうだ。口が裂けてもこんなものを自分が作ったとは言いたくないがな。夜中に動き出すなど不吉な。処分してもらって構わなかったのだが」 「こんなに綺麗で可愛いものを処分なんて出来ませんよ」 「はっ、ならお前にくれてやるぞ」 一色はゆるゆると首を振る。 「これは、大切な人にあげたものでしょう?」 その言葉に桶川の目が大きく開かれた。何を言ってるんだと一色の顔を見る。 「私は昨晩、彼女とたくさん話をしました。これは彼女の母親の形見だそうですね。彼女は母親から貴方が生まれたときにもらったのと聞かされていたようですよ」 彼女の母親は1年前に亡くなってしまったそうだ。どうして亡くなったのかは詳しは教えてもらえなかったし、人が亡くなる、ということもどういう事かうまく理解できなかったが、父親が肩を震わせて泣いていたことが衝撃的だった。 「お前、いったい何を、何の話をしてるんだ」 「ご依頼頂いたこの人形の話ですよ。人形に取り憑いていたのは貴方の娘さんです」 桶川の膝が机に当たってガタリと音を立てた。予想外の一色の言葉にひどく動揺しているようだ。 「何を、娘なんて私にはいない!!!」 「いない?本当ですか?」 一色はすっと右手を上げて、人差し指で桶川の奥を指差した。 「向こう、屋敷の奥に小さな部屋がありますよね。木の扉がついていて、明かりとりの小さな窓だけがある。そこに、ずっといますよね。貴方の娘さん、いろはちゃんが」 目を細めて桶川を見る。一色の鋭い視線に桶川が一瞬怯んだように見えた。 「この人形に取り憑いていたのはいろはちゃんの生き霊です。部屋から出たい、その一心で無意識の間に人形を依り代にしたんでしょう」 馴染みのあるものには取り憑きやすい。特に人形など人型のものは依り代に適している。 本体(いろはちゃん)が眠りについた後、幽体となって人形に入り、部屋の外の世界を見ようとしていたのだろう。その記憶は本人にはおそらくない。 彼女はいつも1人、あの部屋の中にいるだけだ。 「どうか、いろはちゃんをあの部屋から出してあげてください」 一色は深く頭を下げた。
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