例えば、春うらら

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「そろそろ帰りましょうか」 「うっ」 橘の頭の下から思いっきりカーディガンを引っこ抜いて羽織りながらババ抜きをしている3人に声をかける。ちなみに瀬崎が5連勝をしたところだった。強固な守護霊はこういう運も引き寄せるらしい。 「一色、後頭部を強打すると人間は死ぬんだが」 「ああ、すみません。橘さんってヒト科だったんですか」 「いい度胸だ。その喧嘩買おう」 「私の喧嘩はそんなに安くありません。無駄話してないで片付けますよ」 後頭部を抑えながら起き上がった橘はゴミを集める一色を面倒臭そうに見ながら手をかすことはなく煙草に火を付けた。 「私このゴミ捨ててくるので圭太くん達はレジャーシート畳んで帰る準備してくださいね」 「はぁーい!」 可燃ゴミと不燃ゴミの口をそれぞれ縛って持ち上げる。手伝いますと透と瀬崎が声を掛けたが大丈夫と断ってゴミ捨て場へと歩き出す。 今から夜桜を楽しむ人達もいるんだろう。新しくシートをひいている人達を横目に桜並木を通り抜ける。来年はみんなで夜桜もいいかもしれない。提灯でライトアップされてぼんやり光る桜もきっと綺麗だろう。 (……あれ?) ぐるりと公園を一周する桜並木、そこから少し離れた端の方に一本の大木がある。静かに咲き誇る大きな桜の木。満開の桜はヒラヒラと暖かな風に乗って夕暮れ時の世界に花弁を散らす。 日があまり差さないのか他より薄暗いその場所で桜の白が目を引いた。 ここにあるどの桜より、大きくて綺麗。 でも——— その木の根元に人がいる。後ろ姿しか見えないけれどぼうっと佇んでいるようだ。 その人がゆっくりと手を上に伸ばす。その手が伸びる先には、薄茶色のロープ。そう、先が輪っかになっているロープが桜の太い枝に巻かれている。 (ああ、これは、自殺用の…) 周りの喧噪が聞こえない。身体は動かず、声を上げることも出来ない。視線はそのロープから逸らせない。 ロープに白い手がかかる。男なのか女なのか、そう遠くないはずなのに桜がやけに眩しくて姿がはっきりしない。 その人が、輪っかにゆっくりと首を入れて、そして、顔が上がっ… 「視なくていい」 大きな掌が視界を遮った。背中に温かい誰かの体温。 「今日は休みだ」 低いバリトンボイスが揶揄うように耳を撫でる。 「橘さん」 「何だ」 喧噪が戻ってくる。みんなの笑い声、歌声がはっきりと耳に伝わる。 「手伝いに来たんなら早く片方持ってくださいよ」 優しい掌を振り払ってより重たい方の袋を身体に押し付ける。 「1人でゴミ捨てもいけないなんて世話のかかる部下だな」 「馬鹿な上司よりよっぽどマシです」 「お前な、俺が馬鹿なら圭太はもっと馬鹿だぞ」 「圭太くんは可愛いからいいんです」 歩きながら橘に気付かれぬようちらりと後ろを振り返る。 あの綺麗な桜はもうそこにはなかった。
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