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例えば、綺麗なもの
「とにかくどうにかして欲しいの!!」
あまり広くはない事務所内に女性の甲高い声が響き渡る。
綺麗に巻かれた明るい茶色のロングヘアー、上下とも長いまつ毛、しっかりと跳ね上げられたアイライン、艶のある赤いリップ、スタイルも良いし、少しきつめではあるが美人の括りに入る、今回の依頼人の長谷川早織は目の前に座る橘を睨みつけた。
対する橘は語気を強める依頼人を前にしても変わらない不遜なスタンスで煙草の煙をゆっくりと天井に吐き出す。そんな様子を橘の隣に座る一色はじろりと睨みつける。
「うちはストーカーは専門外だ。対人なら探偵事務所紹介するが」
「私だってただのストーカーならこんな胡散臭いところには来ないわよ」
早織は苛立ちを隠さず髪をかきあげた。
事の発端は約半年前に遡る。ある日職場から一人暮らしのアパートまで歩いていると背後に違和感を感じた。だれかが付いてきているような気配に慌ててコンビニに逃げ込み、その日は事なきを得たが、翌日からほぼ毎日誰かに見られているような視線を感じる。
それは日に日にエスカレートしていき、帰宅すると携帯に非通知からの着信が来るようになり、真夜中にインターホンが鳴ることもある。ついにオートロックをかいくぐったのかドアノブがガチャリ、と下がったことで身の危険を感じて警察に相談をしたらしい。
「警察は見回り強化しますの一点張りで役に立たないし、もう探偵事務所にも行って話してきたわよ。でも変なこと言うの」
「変なこと?」
橘が天井から視線を早織に移す。早織は小さく頷くとお茶を一口飲んだ。
「………誰もいませんって」
「どういう意味だ」
「そのまんまよ。明らかに今、尾けられてますって時にも、誰もいませんよ。今、インターホン鳴らされました!って時にも、誰もインターホンのところにいませんって、そんな馬鹿みたいな事を言うの!!!」
早織の声が一段と荒くなる。
ぎゅっと、膝の上で握られた拳が怒りか不安か僅かに震える。
一色は基本的に庇護欲に弱い。依頼の選別や仕事に当たる人物の選定は橘の仕事と決まっているが、気の強そうな彼女が怖がっているこの状況を見て見ぬ振りは出来ない。
「落ち着いてください、大丈夫ですよ。半年間も、怖いですよね」
優しく語りかける一色を呆れた顔で見てくる橘の足の先を踏みつけて言葉を続ける。
「こんな胡散臭いところに来るのも不安でしたよね」
「ええ、本当に。この辺りってどうしてこうも暗い雰囲気なのかしら。そんな辺鄙な所で看板もない蔦だらけのBarなんて入るのめちゃくちゃ勇気いったわよ」
事実すぎてぐうの音も出ない。割と栄えている地域ではあるがこの建物のある辺りはどうも陰湿な空気がする。一色は苦笑いを浮かべ言葉を続けた。
「つまりストーカーの相手が人間ではないのかもしれない、と考えてこちらに依頼されたんですね?」
「もうそれしか思いつかなかったの。絶対気のせいなんかじゃないもの」
「分かりました、お引き受け致します」
「本当?貴方が担当してくれるの?」
「もちろんです」
にこりと微笑むと早織は少し頬を赤らめる。
どうやら契約が成立したようだ。
「それでは契約書を作成しましょうか」
再度柔らかな笑顔を向けながら軽快に見積もりに桁を打ち込む一色を横目に橘は面倒臭そうに天井へと煙草の煙を吐き出した。
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