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午前10時、普通のサラリーマンより遅めの時間に出勤した一色はいつもならチラリと在室しているか確認する橘の自室へ足を向けることをせずBarのキッチンへと直行した。
ドサっと珍しく乱雑にスーパーのレジ袋をシンクの横へと置く。
朝の衝撃を引きずったままなので、普段の穏やかな表情とは打って変わって眉間には深い皺が刻まれている。
チョコレートとバターをボウルに入れる。奮発して少し良いビターチョコレートを購入してきた。50℃程度の湯せんにかけ、チョコレートとバターを溶かす。甘い香りがキッチンに充満した。
ボウルを湯せんから外し、卵・グラニュー糖・ふるっておいた粉類を加え、なめらかになるまでヘラで混ぜ合わせる。Barの客用とは名ばかりの橘の酒のツマミとなっているクルミを加えてさっくりと混ぜる。
卵焼き用のフライパンにオーブンシートを敷いて、チョコレートを流して平らにならし、余ったクルミを表面に散らす。
フライパンを弱火にかけてアルミホイルでふたをして20分ほど加熱。ここまで流れるように作業していた一色の手が止まる。
気分を変えるかのように短く息を吐いた。
(もっと、手のかかるものを作れば良かった)
早々に出来上がってしまっては気分転換にもならない。あの忌々しい物体を再び思い出してしまい一色は込み上げてくる吐き気をコーヒーで無理やり流し込んだ。
「一色」
突然名前を呼ばれてびくりと肩が揺れた。
薄手のスウェットを着た橘が煙草をふかしながら階段を降りてくる。
「おはようございます。橘さんもコーヒーいかがですか?」
「ああ」
カウンターに腰掛けて新聞を開く橘に小さな違和感。常であれば新聞は事務所や自室で読むことが多いのに、どうやら今日はここで落ち着くようだ。
少し不思議に思いながらも淹れたてのコーヒーをカップに注いでそっと側に置く。
チクチクチク、バサリ、
無言の空間に壁掛け時計の針音と橘がめくる新聞の音だけが、一色の耳にはやけに穏やかに聞こえた。
焼きあがったブラウニーも、程よく甘く芳ばしく満足のいく出来栄えだった。
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