例えば、こんな始まり

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一色の頭にはやっぱり、という言葉が浮かんでいた。 今いる派遣会社に今月いっぱいで仕事を辞めさせてくださいと連絡をして、約束通り橘にも電話をした。そして月が変わって正式に橘のところへ赴いたわけだが、やっぱりこの選択は間違いだったかもしれない。 「何ですかこれは」 「あ?何って何が?」 眉間にこれでもかというくらい皺を寄せている一色の前で橘は真っ赤なソファに座ってパンを頬張った。強面な橘には似合わないクリームパン。あ、でもそこに落ちている袋はこのへんで有名なパン屋のものだ。さぞかし美味しいんだろう。一色の思考回路はどうでもいい方へと現実逃避をしようとしていた。 でも目の前に広がる光景がそれを許してくれない。 BARを二階に上がって階段に1番近い部屋に通された。広めの部屋に簡易キッチン、赤いソファにガラスのローテーブル、白いジャバラのパーテーションの奥には灰色のデスクが4つと大きめの棚。 事務所のような造りをしているし、実際そうなんだと思う。 しかし、 「汚すぎでしょう」 いかんせん散らかっている。 キッチンのシンクにはいつのものか分からない食器が積まれていて、せっかくついている二口のコンロの上はペットボトルや空き缶、ビニール袋。 ローテーブルの上やデスクの上には大量の書類や封筒がごちゃごちゃに置いてある。棚はもうその役割を果たしておらずあっちこっちからバインダーが飛び出して閉まらない状態だった。 「ああー、秋口に事務で雇ってた女が辞めてからこんな感じだ。ま、気にすんな」 橘は周りを一応ぐるっと見渡してから再びパンを口にする。 「いいえ!!まずは部屋の片付けからです!あ、今日からお世話になります」 一色は強い口調でそう言うとまずは窓を開けて部屋の換気をする。後ろから寒っ!と低い悲鳴が聞こえたが無視した。 まずは溜まりに溜まっているシンクから。大きめの皿やコップを一心に洗う。食器が洗い終わったらシンクの掃除。自主規制レベルの排水溝をハンカチを口元に巻いてなんとか戦う。溜まっているペットボトルや空き缶を分別してゴミ袋に放り込む。 使える状態になったキッチンを見て良し、と小さく呟いた。 視線をローテーブルに移してまずはこの部屋をヤクザの巣窟のように見せている灰皿の撤去に着手する。 「没収です」 「……何しやがる」 橘の口に咥えられた煙草を一色の指がかっさらう。下からじろりと睨みつけられても一色は動じる事なくその煙草を灰皿へこすりつけた。 「掃除の邪魔なので席を外してもらえませんか?」 「お前、顔に似合わず可愛くねぇな」 「どうとでも言ってください」 同性に可愛いと言われても嬉しくもない。 小さい頃から美少年ねぇーと周りから言われていたため、自分の容姿が整っている方だとは認識をしていたし、そのおかげで良いこともたくさんあった。でも中学生の頃塾の男性講師に一色くん、可愛いねと手を握られて以来一色の中で可愛いはもはや禁句レベルになった。可愛いは正義だが自分に使われるようなものではない。 オールバックの頭をガシガシと掻きながら橘は部屋から出て行く。それを見届けて一色は煙草の吸殻をゴミ袋に捨てた。ツン、とキツイ匂いが鼻を刺激する。吸わない人間からすればこんなものを肺に入れたい気持ちが全く分からない。 深く深呼吸をして、とにかく手を動かした。
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