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月夜に現れた見知らぬ男
そして、月が真上に上がる頃。
軽く夕食を取った後、定例になっている後宮外周の見回りを終え、エヴァンはベアトリスに指定された通りに、後宮の中心にある庭の真ん中に立っていた。
昼間の明るいお茶会会場とは打って変わって、僅かな風の音と小さな虫の声が聞こえるだけのこの場所は、まるで別世界のようだ。
王妃候補達の住まう三つの屋敷に視線を巡らせると、どこも必要最小限の明かりだけが灯り、静かな休息を迎えているようでほっとする。
いくら王妃候補といっても、三人とも望んで来た場所では無い様子だった。親元から離れ、自らが連れて来た少数の女官以外に知り合いもいない中、王が住まう場所で王妃の座を争う日々はストレスも溜まることだろう。
今回の王妃候補三人は、争うというよりはむしろ仲が良く上手くやっているように見えるが、Ωの令嬢達の強いとは言えない身体にかかるその重圧はいかばかりか。
出来るだけ心穏やかに過ごして欲しいと思うのは当然だし、その為にエヴァンはここに居る。
命令に逆らえない所はもちろんあるし、その理由が大きいのは確かだが、護衛の任を越え王妃候補達とのお喋りに付き合っているのは、同じΩの自分がそれを少しでも軽く出来るのならばと考えての事だった。
「だが、ここに一体何があるんだ?」
結局ベアトリスからはこの時間にここに居るようにと言われただけで、何をしろという指示はなかった。
この様な真夜中にベアトリス自身が出て来るとは考え辛いし、出て来たら大問題だ。いくらエヴァンがΩであり男として対象外だとしても、端から見れば男女には違いない。恐らく逢い引きにしか見えないし、この指示の事は他の二人の王妃候補や女官達にも知られている。
王の寵愛を得る為にここに居ると言うのに、こそこそを通り越して堂々とした浮気宣言を、公爵令嬢で王妃に一番近いと言われているベアトリスがするとは考えられない。
だとすれば他に何か理由があるはずだが、エヴァンにはそのヒントさえも与えられることは無かった。ただベアトリスの指示を拒否する立場では無いから、ここに突っ立っているというだけだ。
暫く辺りを警戒してみたが、特に変わった事はない。
どの位ここに居れば良いのかわからず、庭の中心に設置されている噴水の縁に腰掛けて雲一つない空に浮かぶ月を見上げて暫くした頃、ふわりと風に乗って甘い香りが鼻をくすぐった。
「君が、エヴァン・アルトー?」
庭に咲いている花の香りとは違うその香りに、咄嗟に立ち上がって腰に佩いた剣に手をかけるのと、背後から声が掛けられるのはほぼ同時だった。
いくら殺気を感じなかったとは言え、長年騎士候補として訓練し、後宮の警備として配属される実力は持っているはずのエヴァンの背後が簡単に取られた事に、びくりと一瞬身体を震わせる。
すぐに気を引き締めて、剣に手をかけたままゆっくりと振り返ったその先には、同じ人とは思えないほどキラキラとした一人の男が立っていた。
金髪碧眼の整った容姿と、エヴァンの様に筋肉質ではなくすらりとした体格。だがナヨナヨとしている印象は無く、芯の通った姿は頼りがいがありそうに感じる。
シャツにズボンというラフな格好さえ様になっていて、同じ男として羨ましさを通り越して憧れさえ抱いてしまいそうな程、何一つ着飾らずただ立っているだけなのに素直に格好いいと思える容姿だった。
何よりこんなに美しい顔の造形をしている男は見たことが無い。この顔で微笑まれたら世の女性達はいちころだろう。
Ωであるからか、身体は鍛えられても背丈はどうしても平均以上には伸びきらなかったエヴァンから見ると、すらりと伸びた身長は頭一つ分の差がある。
どうにも後宮を荒らしに来た不審者には見えなくて、呆然と声を掛けてきた当人であろうその整いすぎた人物を見上げていると、突然ぶわりと身体が熱を持った。
(えっ? なんだこれ……まさかヒート? いや、そんなはずは……)
否定する思考に反して、上がり続ける熱の気配に驚く。
エヴァンのヒートの予定はまだ先のはずだし、もちろん抑制剤もきちんと飲んでいる。あの事件の教訓から、必ず肌身離さず薬は持っているし予備もしっかり準備していて、更に食事毎に正しく服用出来ているかの確認もしているから間違いない。
混乱の中、否応なしに身体の熱だけが高まっていく。体内で渦巻く暴力的な程の熱量は、この現象がΩのヒートである事を如実に示していた。
しかもこの感じは、確実にいつもと違う。
言うなれば以前、抑制剤を隠された上にわざと促進剤を飲まされ、α達に囲まれて無理矢理熱を高められたあの事件の際の感覚に近いが、あの時よりも更にずっと濃度が高く、そして気持ち悪いばかりだった拒否反応が一切無い。むしろ何故か、喜びにも似た感情が渦巻いている様でさえある。
今まで自然と起こるヒートでは、ここまで身体の制御が利かなくなったことはなかった。無理矢理引き出された熱に、混乱というよりも恐怖に近い感覚に襲われているのに、エヴァンの身体は目の前に居るαを強く求めてしまいそうにもなる。
それでも辛うじて残された理性を引っ張り起こし、この後宮の護衛としてやるべき事をなす為に震える手で剣を抜こうとしたが、そうするよりも早くエヴァンの身体はふわりと宙に浮いていた。
「なっ……下ろせ! 何のつもりだ」
「もう立っていられないだろう? いいから、大人しくしていて」
至近距離で告げられ、額に造形の良すぎる顔が近づく。
いわゆるお姫様だっこで抱き上げられ、額にキスをされたとエヴァンが理解した時には、既に突然現れたαの男はエヴァンを抱きかかえたまま歩き出していた。
αの男の足が向かう先は、王妃候補の為に用意された屋敷だ。
今回王に見合う候補が少なかった上に、最小限の人数でと命が下されていた為、本来少なくても十人、多くて二十人近く迎え入れる事の出来る後宮の屋敷のほとんどは、使われていないままだった。
庭をぐるりと囲む多数の屋敷はほとんど人が入っていないが、手入れだけは全て行き届いていると聞いたことがある。防犯の観点からも、誰もいない屋敷にも多少の明かりは灯されているし、いつでも利用できるようになっているらしい。
エヴァンを抱きかかえたαの男が向かったのは、そんな王妃候補の為の屋敷のひとつ。
エヴァンが立っていたのは庭の中心にある噴水だったので、どの屋敷までも同じ様な距離ではあったが、三人の王妃候補達が住まう屋敷は比較的近しい場所にある。
本来なら明かりの多くついているその場所近辺へ向かいがちだが、αの男は王妃候補達の屋敷から対角線上にある一番遠い場所を選んだ様だった。
騎士にさえなれなかったただの護衛の一人であるエヴァンが、後宮の王妃候補達の為に作られた屋敷に足を踏み入れるなど許されることでは無かったが、今は身体を暴れ回る熱のせいで、それを言葉にする余裕もない。
平常であればヒートが起こるのは個人のタイミングによる所が大きいが、強すぎるヒートが起きたΩとそれに呼応したαがいる場合、近くにいるΩのヒートも誘発されてしまう事がある。
働かない頭で呆然と見上げた先に居るαの男も、冷静を装ってはいるが目元に熱をはらんでいるのがわかった。恐らくエヴァンのヒートに当てられてしまったのだろうから、冷静に王妃候補達の屋敷から離れてくれたのは有り難い。
王妃候補たちを守るはずのエヴァンが、いくらαの騎士が入り込めない後宮内とはいえ王妃候補達を一斉にヒート状態に導いてしまう等という事態だけは、絶対に避けなければならない。
王妃候補の為の屋敷に入った事に対する処分は、ヒートが治まった後受けることにしよう。このαの男も、やむを得ずヒートになったエヴァンを運んでくれただけなのだがら、咎は一人で受けるよう進言しなくてはならない。
今はまず、王妃候補達三人へ影響がない様にすることの方が優先順位が高いのだから、αの男の判断は正しい。
後は、エヴァンを運び込んだこのαの男がこの先どう行動するかが問題だ。
ヒートを治めるには抱いて貰うのが一番だが、エヴァンは今まで誰かと身体を重ねたことはない。誘い方などわからないし、何より相手の正体がわからない以上、迂闊な事は出来ない。
このままエヴァンを置いて立ち去ってくれるのが一番有り難いが、こんなに近い距離で強いヒートを起こしているΩを目の前に、理性をどこまで保ってくれるかは未知数だ。
幸いな事にエヴァンの容姿体型はΩらしくなく、騎士候補だった頃からずっと「顔だけならイイ線いってるのに、鍛えすぎてて男相手にしてる様にしか思えなくて萎える」「いくらヒート中でも、お前を抱きたくなるなんてねぇわ」と言われ続けてきた。
正直萎えてくれていいし、抱きたくなられても困るだけなので、その意見は全然構わなかったのだが、そう言っていた奴らでさえあの事件の時は荒い息で近寄って来ていた事を思うと、ヒート中のΩが出すフェロモンに抗い難いαの本能的な部分も大きいのだろう。
この間のように全身全霊で暴れて拒否出来れば良いが、今回のヒートは怖くなるほど知らない感覚が多く、全然身体が思うように動く気がしない。
しかもエヴァンの身体は、このαの男に触れて貰う事を望んでいるかの様で、気を抜けば抱いて欲しいと頭を下げて懇願してしまいそうだ。
鍛え上げているエヴァンを軽々と抱きかかえる事の出来る位には、このαの男は力強い。今のエヴァンの状態では、きっと無理矢理来られたら抵抗は出来ないだろう。
更に言えば、この間は間一髪で助け出してくれた兄は、αであるが故に後宮に入る権利がない。今日の後宮内の護衛はエヴァンだから、エヴァン自身が緊急連絡を入れない限り、門前や周辺を警備しているβの騎士も、後宮の中までは入って来ない。
つまり知り合いの誰かに、ここから助け出して貰える可能性はゼロに近い。
どう考えても、今の状況から上手く脱する方法が浮かばない。この際、自分の身はどうなってもいいから、後宮を汚すことにならなければいいと願うばかりだ。
時間を増す毎に、どんどん熱を解放したくて短くなっていく呼吸を隠すことも出来なくなったエヴァンを抱くαの男の手に、ぐっと力が入る。
最初は壊れ物を運ぶように優しかったのに、屋敷の中に入ってからは余裕を無くした様子で、大股でズンズンと歩くαの男に連れて来られたのは、広い寝室だった。
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