黒猫婦人

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青年はとある邸宅で小間使いとして働いている。 邸宅は広いのに婦人1人しか住んでいない。 誰かの帰りを待つわけでもなく、ただそこに住んでいるように青年には感じ取れる。しかし、余計な詮索をしないことが雇う条件とまではいかなくても2人の間で定められているのであまり考えないようにしている。 「この黒薔薇、綺麗でしょう?手に入れるのに少し手間取りました。」 「ええ、美しいですね」 「地下の部屋に飾ってくるわ」 婦人は食事を必ず地下の部屋で召し上がる。 普通は日の光が入る一階で食べないのだろうか。 青年には不思議に思えることが、この邸宅では多々あった。 彼の仕事の一つに、キャスター付きのテーブルに食事を載せて地下室にいる婦人の元へ運ぶのがあるのだが、それに細かい決まりがある。 最初に、部屋に入る時は必ずノックをし声を掛け反応を待つこと。これは絶対に忘れないで、と念を押されている。 次に、食事は婦人の側ではなく斜め後ろ程度の位置にまで運ぶこと。 そして、運び終えたら即座に部屋を出ること。 ここまでの説明だと、ただ細かくマナーが定められてるだけと思われるかもしれない。しかし、妙に引っかかる点が多いのだ。 まず、婦人は地下室以外の部屋にいる時はしないのに、地下室にいる時だけはドアの内側からご丁寧に鍵を掛けていらっしゃる。本当に繊細で、プライベートな時間を邪魔されたくない性格なのであれば、どの部屋にいる時も同じように内側から鍵を掛けそうなものであるが。 次に地下室の中である。キャスター付きのテーブルを運ぶのが青年の仕事であるが、キャスターの先端をどこまで進めていいのか目印のテープが床に貼られている。これは絶対にこの線を超えてはいけないという婦人の意思表示である。青年はいつも慎重に、線を超えないように、ゆっくりとテーブルを押す。脂汗が手のひらに滲むこともしばしばである。 そして、婦人は地下室ではいつも前向きに椅子に腰掛け、青年には振り向きはしない。 「ご苦労様」とだけ優しく声を掛け、再び部屋に1人だけになりドアに鍵を掛けるタイミングを待っている。 婦人の膝の上にはいつも黒い丸い動かない物体が眠るように鎮座している。 婦人はそれを大切そうに撫でている。恐らく黒猫だろう。それだけは青年にも察することができるのだが、先述の床に貼られたテープの位置や、婦人が前を向いて座っていることから、彼の位置からではどんなに目を凝らしても絶妙な位置関係からその黒い物体を直視することができないのであった。だから恐らく黒猫であろうとしか言うことができない。 さらに、青年は邸宅やその周囲で黒猫を一度も見かけたことがないのだ。あの黒猫はずっと地下室で飼われているのであろうか。それにしては地下室のカーペットも綺麗であり、抜け毛も見当たらないのである。 青年はいっそ気になることを婦人に尋ねてみようかとも思ったが、前に軽く叱られたことを思い出した。 邸宅で小間使いを初めて1ヶ月経たない頃、婦人がいつも黒薔薇を買ってくることを不思議に思い質問した。 「◯◯さん、どうしていつも黒薔薇を飾るのですか?」 「何か気になることでもありまして?」 「赤い薔薇ではなく、わざわざ黒薔薇を買ってくるのはどうしてかなと思いまして。」 一瞬、婦人は黒薔薇に目を落としそれから一拍置いて 「いい?坊や、この家で小間使いを続けたければ、あまり細かいことは詮索しないで頂戴」 軽く笑顔は浮かんでいたが、婦人が牽制の意図を持って発した言葉だということを青年は見逃さなかった。 特に仕事が苦しいわけでもなく、雑に扱われることもないので、働き続けたかった彼はそれ以降詮索するような言動は慎むように心がけた。 婦人がいない時、黒猫は地下室で何をしているのだろう。 詮索はしないと心に決めたものの、それでも不可思議な取り決めと黒猫の存在が青年に自然と関心を抱かせるのであった。 勤め始めて約1年が経ったころ、彼の興味はグラスいっぱいになり溢れだした。 どうやったら婦人の秘密をばれずに探れるだろうか。そしてある一つの策を思いついた。 地下室は文字通り地下にあるが1階や2階の部屋と同じく窓がある。窓の外は金属で覆われており地中の圧力から守られている。飾りの窓ではあるが、その辺りには小さなオルゴールや輸入物の雑貨が所狭しと置かれている。そこに目立たない程度の大きさの鏡を忍ばせようというのだ。 休みの日に町へ繰り出し、輸入雑貨の店でちょうど良さそうな葉書よりは小さめの鏡を見つけた。そして婦人が外出している間にこっそりと鏡を仕込んだ。 婦人は夕食時、必ず前を向く。キャスター付きのテーブルを運ぶその時がチャンスだ。鏡が死角の問題を解決してくれる。 夕食の時間を迎える。青年は平静を装い、いつもの手順でテーブルを前に進める。 あと少し、あと少しで謎が解ける。いつもとは違う夜に内心興奮していた。 黒猫に見えたそれはよく見ると丸く石膏のようなしっかりとした素材で出来ているのが分かった。だが何かが違う。……気付いた。これは黒猫ではない。 それを正面から見た時、青年は声を上げることも出来ず、心臓の鼓動が早くなったことによる振動を全身で感じた。丸いものは、縦長で、歯を持っていた。そして、こともあろうか丸い窪みが2箇所あった。過去にその窪みには2つの球体が入っていたことが想像できる。 「私がこの手で主人の胸を包丁で突き刺しました。だけど、骨に当たってしまって上手く刺せませんでした。2日間、膝に頭を載せて頬を撫でて差し上げた時の、あの私を見つめる瞳が忘れられません。」 青年の企みが全てお見通しであったかのように、夫人は急に語り始めた。 「この人は仕事人間でしてね。結婚生活が楽しみな私は寂しかったわ。帰りが遅く、休みの日も疲れて寝てばかり。決して私への愛がなかった訳ではないのでしょうけどあまり私から見たら相手をされてるようには感じなかったわ。」 何も言い返せず震える青年に向けて夫人は続けて語る。まるで今まで誰かに話したかったのを我慢していたように見える。 「丁寧に、丁寧に、私は主人のお顔を拭いて綺麗にして差し上げました。だけど、人間はいつか朽ち果ててしまうでしょう?だから、思いついたのです。この人を私色に染めてしまおうと。」 夫人は腐敗が進み、自然に体から頭部が外れる頃になるまで夫を日が当たる2階の部屋に1人にしておいた。そして、時期が来たら両手で体から頭蓋骨を外した。干からびた肉を払い、自分色に染める準備に取り掛かった。筆を取り、頭頂部から黒い塗料で丁寧に頭蓋骨を塗っていく。重油のような真っ黒い塗料が自然と顎の骨のあたりまで滴り流れていく。特に目の窪みには心を込めて塗り込んでいく。塗装と乾燥を数日掛けて繰り返し、ついに夫人の“黒猫”は完成したのである。 「坊やに黒薔薇の花言葉を教えて差し上げましょう。あなたは永遠に私のもの。あの世で主人もきっと喜んでいるでしょう。」黒猫を撫でながら夫人は語った。 いままで、夫人の買っていた黒薔薇は毎回黒猫の側に供えられていたのである。 青年は、夫人の恋や愛を超越した主人への愛憎とも言える感情に対面したのを悟り。自分が夫人に対して恋心を抱いていたことを自覚したのだ。その恋の相手には限りない熱量をもって愛する人がいることを自ら進んで知った。知らなくてよかったことを自ら詮索、いわば自傷行為に走ったことを後悔した。そして夫人は永遠に手の届かない存在であることを悟った。青年は黒猫の真実を知ったことよりも自分の心が主人に犯されている気分で気分が悪くなりその場にうつ伏せに倒れた。
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