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後編
それから数日、考え続けた。勇者を救う方法、自分が救われる方法。
勇者の傷が治らなければ自分は魔王の手から抜け出せない。しかし、勇者の負った傷は人の力では治せない。
考え続けた結果、他の方法は思い付かなかった。
「今日は一段と物憂げですね、姫よ。そんな貴女も美しいが、一体何をそんなに悩んでいるのです?」
今日も魔王は愛の言葉を囁き続ける。薄っぺらい、全く心の籠っていない言葉。
彼の真意は未だ見えない。祖国にとって価値のない娘と言いながら、何の利益があって自分を妻としたのか。
姫は尋ねる。
「貴方は本当に私を愛してくださっているの?」
「ええ、勿論。そんな風には見えませんでしたか?」
「なら、私の願い事を聞いてくださる?」
「それは内容に依りますね。実家に帰りたいとか、私に死んで欲しいとか、そういうものは困ります」
「そんな大それた願いではありません。私が願うのは本当にささやかなこと」
少し迷ったが、意を決して姫は語り始めた。
「先日、魔法の鏡で友人を見たのです。彼は剣士だったのですが、怪我で二度と戦うことができなくなってしまったそうです。救って差し上げたい」
「……姫の知人となれば、それは王の覚えもめでたき剣士でしょう。つまり、我が敵でもある訳だ。しかも彼と言うことは男である、と。一体どのような仲でいらっしゃったのです?」
「それは……」
やはり魔王は賢い。そもそも初めに勇者の情報を齎したのは魔王だったのだ。彼の怪我のことは魔王も知っている可能性がある。ならば、姫が勇者を救わんとしていることも気付かれたかもしれない。
嫌な汗が胸元を伝った。
しかし、魔王は困ったように笑ってこう言ったのである。
「否、邪推は止めましょう。分かりました。叶えて差し上げましょう。ですが、願いがそれならば代わりに対価を頂きます。でなければ、私も面目がありませんからな」
ぎょっとして姫は魔王を見返した。魔王の言っていることはつまり悪魔契約を結べという意味だ。
「やはり、貴方は魔族だわ」
「いかにも私は魔族ですが、その願いはただで叶えるには余りに代償が大きいようだ。お分かりでしょう?」
勇者の身が危ない。直感的にそう感じた姫は、魔王に付け入る隙を与えた先程の言動を後悔した。
「彼に何をするつもりです」
「何も。その願いは貴女のもの。対価は貴女から頂きます」
「それは何です」
硬く引き結ばれる姫の口に魔王は軽く人差し指を当てた。
「『せめて人前では私を愛している振りをなさい。』私が求める対価はそれだけです」
姫は拍子抜けして、口をあんぐりと開けた。
至極予測通りの反応に苦笑して、魔王は踵を返す。
姫は慌ててその背に呼びかけた。
「何故、そのようなことを?」
魔王は足を止め、顔だけ振り向いて見せた。その目は笑っていたがほんの少し悲しみの色を滲ませていた。
「私の臣民が貴女に不信感を抱いているからです。いずれは私の為に貴女の命を狙うやも知れない」
彼の言葉に姫は瞠目する。
つまり、この男は自分の身を案じてくれているということなのか。
「では、早速薬を用意させましょう」
姫の反応を待つことなく魔王は再び扉へ向かい、背中越しに告げた。
そして、魔王は扉の向こうに消えていった。
◇◇◇
後日魔王から聞いたところによると、勇者の現在の住まいは城下町から離れた森の中にあるという話だった。
困ったことに姫は勇者の居場所を知らなかったが、魔王が地図を見せ「大体この辺りですよ」とからかうように指差した時には、自分の軽挙妄動振りに眩暈がした。もう完全にばれてしまっているらしい。
祖国までの旅路には監視の為か魔王も同行しているので、今更手遅れであるとは言え、やはりこの男と勇者を直接会わせるようなことは避けなければならない。
「この辺りで降ろしてください」
勇者の住まいから少し離れた場所で御者に声を掛け、姫は一人馬車を降りた。
向かいの席に座っていた魔王は苦笑する。
「用心深いことですな。私は貴女のご友人に何もしませんよ」
「信じられません。心配なさらずとも、私は逃げたりしませんよ。どうせ逃げられないのでしょう?」
「よくお分かりで」
そんなやり取りを終えて駆けていく姫の背中を見送り、魔王は雲が浮いた青い空を見上げた。
(さて、仕掛けは整った。どうする、勇者?)
◇◇◇
金色の木漏れ日が落ちる中、勇者は暗い顔で自宅の扉の前に立っていた。手には何やら書簡のような物が幾つか握られている。
それを少し離れた場所で見守っていた姫は目頭を熱くした。
「勇者様……」
感極まって泣き出しそうになるのを抑え、ふと彼の住居を見上げる。真新しいが本当に小さな、まるで木こりの住まいのようだった。行ったことはないが、城下に与えられた彼の屋敷とは恐らく比べ物にならないだろう。
(粗末なお家。勇者様には全然相応しくない)
彼は勇者を辞めてしまうつもりなのだろうか。その地位のみならず、勇者として与えられた財や名誉までも全て捨てて。
悶々としているうちに勇者が扉を開け家の中に入ろうとしていたので、姫は慌てて勇者を呼び止めようとした。
「勇者――」
「お兄様」
その時、扉が内側から開き、姫の声に被さって鈴を転がしたような少女の声がした。
「お兄様、ここにいらしたの」
扉の中から現れたのは姫よりも四、五歳は幼く見える背の低い娘であった。
(妹?)
まさに勇者の妹という年齢の少女に見える。しかし、勇者に妹がいるという話は聞いたことがない。
様子を伺っていると、勇者は先程の暗い表情から一転朗らかな笑顔を見せた。
「『お兄様』は止しておくれ」
「ご免なさい。ずっとそう呼んでいたものだから、その呼び方が抜けなくて」
「困ったものだね。私達はもうすぐ夫婦になるというのに」
そう言って、二人は抱き合う。
(――え?)
姫の呼吸が止まった。
「でも『あなた』と呼ぶのは、まだ早いんじゃありません?」
「そうかな。私は『あなた』の方が嬉しいけれど」
「まあ、お兄様ったら」
「ほら、また……」
激しい動悸に襲われ、姫はぜいぜいと息を吐いた。
(夫婦って、どういうこと? 勇者様は私を愛してくれていたのではないの?)
そう、王城の謁見の間で、舞踏会で、薔薇の咲き乱れる庭園で、跪き手の甲に口付けをする彼に自分は頬を染め熱い視線を送った。彼も微笑んで賛辞と敬愛の言葉を捧げてくれた。「命に代えても貴女をお守りいたします」と言ってくれた。身分の違い故、身体を触れ合わすことは叶わなかったが、それでも自分達の想いは深く繋がっていた筈だ。それなのに――。
「そう言えば今日はお城に行ってらしたのでしょう?」
「ああ、魔王領侵攻軍の旗頭になるよう仰せ付かったが、怪我のことを話して辞退申し上げたよ。それから勇者の地位も返上してきた。国王陛下や重臣の方々は大層惜しんで下さったが、そういう事情であれば仕方がないと認めて下さったよ。ああそうだ。国王陛下から退職金と結婚の祝い金代わりにと、びっくりするような額の金貨を頂くことになったよ。後で届けられると思うけど。こんな大変な時期に申し訳ないことだ」
「……良かったのですか?」
「何がだい?」
「勇者、本当はまだ続けたかったのでしょう? 私の為に辞めてしまって。その怪我だって私を守った所為で――」
最後の方は言葉にすらならず、少女は身体を打ち震わしてわっと泣き出した。
「良いんだ」
勇者は妻となる少女を強く抱き締めた。ずっと姫がしてもらいたかったこと、今してもらいたいことを少女にした。
「良いんだよ。私は君を愛している。それだけで十分じゃないか」
「お兄様……」
恐る恐る見上げる少女にふっと笑いかける。
「まあ、大して贅沢はさせてやれないかもしれないけど、勇者をやってただけあって体力や腕力はあるし、魔法だって使える。多少の伝手もあるから、人並みの生活はさせてあげられると思うよ」
「ふふ、お兄様」
「ん?」
「私は世界一幸せな女です」
うっとりと微笑む少女は確かに世界一幸せそうに見えた。
やがて、勇者は少女の肩を抱き、少女は勇者に身体を預け、二人仲良く小さな新居の中へと消えていったのである。
ずっと会いたかった勇者に声を掛けることも叶わず、置き去りにされた姫は呆然と立ち尽くした。
(勇者様が勇者を辞める? あんな下賎の小娘の為に)
――あんなに愛していたのに。
(皆、私を除け者にして、私を忘れて――)
――勝手に幸せになっていく。
私がどんなに酷い目にあっても、どこか知らない場所で命を落としたとしても、きっと彼等にとってそれはどうでも良いことなのだ。
だとしたら私の愛は、彼等に向かって投げかけた愛情は一体どこへ落ちていったというのだろう。
泣きたかった。泣きたかったが、泣けなかった。泣くことさえできなかった。
馬車の扉が乾いた音をたてて開く。中には穏やかな笑顔を讃えた魔王が座っていた。自分の妻が自分以外の男、しかも仇敵である男に会いにいったというのに憂いの色はない。
「おかえり、姫。おや……」
魔王は姫の手元を見て、わざとらしく首を傾げた。彼女の手にはまだ薬瓶の入った皮袋がしっかりと握られていた。勇者に渡す筈だった薬だ。
「御友人は見つからなかったのですか?」
「見つかりましたが、これは不要になりました」
沈黙が落ちる。しかし、魔王はあえて問い質しはしなかった。
「そうでしたか。……では我等の城に戻りましょう」
「この薬が不要になった代わりに、一つ別なお願いができました」
どこか冷たさを感じる姫の口調に魔王は表情を変えず尋ねる。
「……何です?」
「私に兵をお貸し下さい。祖国を攻め滅ぼしとう御座います」
初めて姫は魔王の顔を真っ直ぐに見返した。彼女を攫って一年、初めてのことである。
その顔には何の感情もなかった。
姫の言葉に返事はなく、代わりに魔王は手を叩いて喜んだ。
◇◇◇
数ヶ月後、魔王軍が人間族の王都へ直接攻撃を仕掛け、城下は火の海となった。
既に城内に侵入している魔族をかつて勇者と呼ばれた青年は出会いざまに斬り伏せる。剣の腕は確実に落ちてはいたが、それでも小物程度は何とかなるようだ。回廊のあちこちに転がる死体を飛び越えながら青年は国王を探す。
今は隠居の身で召集すらされていなかったが、彼は自発的に城へやってきた。新妻は泣いて引き止めたが、世界を揺るがす大事に見て見ぬ振りを決め込むことは彼の良心と忠誠心が許さなかった。
「しかし、これはどういうことだ」
数ヶ月前、城を離れる際に耳にした情報では、魔王軍は未だ西の国境で足止めされているということだった。魔王領と近い西方の辺境伯領の軍は国内でも上位に位置する強さを誇る。それを難なく突破し、たった数ヶ月で一気に王都まで攻め入るとは。
(一体何があった?)
青年とも旧知の仲であった老獪な辺境伯の笑顔が脳裏に浮かんだ。
ふと、窓の外の上空に目をやると、無数ある有色の旗の中に数枚、大きな漆黒の旗が棚引いているのが見えた。山羊の角のような形状の二又の槍に三匹の大蛇が絡みついた紋章が描かれている。
「魔王直属旗! 魔王自ら仕掛けてきたというのか」
さっと血の気が引いた。
城内には未だ生きている人間の気配を感じ取ることができない。
青年は叫んだ。
「国王陛下! 王太子殿下! どこにおわします!」
しかし、返事はない。彼の声だけが回廊に虚しく反響するだけだ。
それでも青年は走り続け、漸く謁見の間へ辿り着く。
かつて眩い光に包まれていたその場所には、何体もの亡骸が積み重ねられていた。数を数える余裕はなかったが、皆見覚えのある顔だった。その死体の山の頂点に王の首が据えられていた。
「陛下! ああ、何という……」
青年は死体の山へと歩み寄り、王の首の前で膝を突いた。
暫く声も出せずに涙を流していたが、ふと、この凄惨な場面には不釣合いな甘い香水の香りを嗅ぎ取り、青年は顔を上げた。そこで初めて死体の傍らに立つ一人の女性の存在に気が付いた。
「……姫?」
呼ばれた女性は女神のように美しく微笑んだ。
だが、そんなものは青年の目には入らない。彼の意識は姫の衣装や手にした斧をべっとりと汚す赤い血に向いていた。
「その御姿は? これは一体どういうことです。その斧、まさか貴女が王を……いや、それ以前に姫はお亡くなりになられたのではなかったのですか?」
「ああ、覚えて下さっていたのですね。お久しぶりです、勇者様」
頬を染め、恍惚とした表情で姫は言う。質問の返しには全くなっていなかった。
青年は姫の「勇者」と言う言葉に思わず目を背けた。
「私はもう勇者では……」
すると、姫は「あら」と悪戯っぽく笑った。かつての姫そのままに。
「ならば、何故貴方は城にいるのです。勇者の地位を捨て戦場を去っても、祖国の窮地は見過ごせなかったのでしょう。貴方は勇者の心を失わなかった。そうであるならば、貴方は今も勇者ということです」
「姫……」
困ったように青年は姫を見上げた。
姫は心中の見えない作り笑顔で青年を見下ろしていた。そして、首を横に向け冷たい口調で言い放つ。
「だから、それはもういりませんね」
姫の視線の先には、両脇を異形の魔族に抱えられ、涙を流して震えている一人の少女の姿があった。
「……お兄様」
か細く青年を呼んだ瞬間、少女の首は落とされ、ごとりと音をたてて床に転がった。
青年は声にならない悲鳴を上げた。
その様子を冷ややかに見下ろして、姫は斧を振り少女の血を払った。
「勇者様を堕落させる、悪い女」
淡々と言葉を紡ぐ。その声に憎しみの色はなく、悟りを開いた聖者が真理を説いているかのようだ。
「勇者様、貴方が未だに勇者であり続けているというのなら、どうして私を救って下さらなかったのですか?」
「違う。私は勇者じゃない。彼女一人守れない。私は、私は……!」
「でも、何かできると思ったから、ここにいらしたのでしょう? 貴方を世俗へ引き止める、その女を置き捨てて」
「そんなこと……」
言葉では否定しながらも、心のどこかで姫の言葉に納得している自分がいる。
妻の身に危険が及ぶ可能性を考えもせず、彼女の許を離れ城へ向かったのは、大儀や忠義の為などではなく、勇者であり続けることに未練があったからなのではないのか。勇者として戦えないことはもうどうしようもないことで、ちゃんと諦めなければならなかったのに。実際、城に来ても何もできなかったのに。そんな醜い欲望の為に彼女の尊い命は犠牲となったのか。
「懐かしい顔だな」
低く穏やかに響く声に青年は、はっと顔を上げた。
端正な面立ち、豪奢な黒ずくめの衣装。戦場で何度も見た姿だ。
「魔王、貴様……!」
呻くように青年はその名を呼んだ。
魔王はちらりと青年を見たが、すぐに背を向けて姫の方を見た。
「我等が城へ帰りますよ。その男は捕虜――いや、戦利品です」
「……」
「まさかこの期に及んで嫌とは仰いますまいな」
「……勿論です。私の帰る場所は最早この城ではないのですから」
姫は踵を返し、謁見の間を去っていった。もう、この城に未練はないと言うように。
◇◇◇
魔王領では遂に魔王が世界を手に入れたことを受け、各地で祝賀の祭りが執り行われていた。
ここ王城でも連日連夜の宴が催されている。
戦利品及び見せしめとして鎖に繋がれ、愛玩動物のように侍らされていた勇者は傍らの魔王を睨み付けた。
「何をした」
「『何を』とは何のことだ?」
「はぐらかすな! 姫のことだ」
勇者は首を傾ける。彼が示した先には姫の姿があった。
魔王はくつくつと笑い、杯を煽った。硝子の杯から注がれる葡萄酒はまるで血の色だ。
「大方、予測は付いているのだろう。答える必要はあるのか?」
「……」
「あの娘には資質がある。魔族の資質がな。しかし――」
姫の側には見目の良い男性魔族が数人侍っている。甲斐甲斐しく奉仕されて姫も気を良くしているようだ。
それを見た魔王は思わず噴き出した。
「妃の器ではないかなあ」
からからと無邪気に声を上げて笑う魔王に勇者は激昂した。
「貴様、人の心を弄んで!」
「はは、それはお互い様だろう。三分の一くらいはお前の所為だからな」
「……!」
黙りこんだ勇者の顔を面白そうに覗き込んで魔王は頬杖を突いた。
「しかしまあ、あの姫が王族しか知らない内部情報を教えてくれたお陰で、難なく世界が手に入った訳だし、姫が本当に狂うのも時間の問題だし、後は何をするかね。相手してくれるか、勇者?」
「ふざけるな」
「ふざけてなどいないさ」
そうして、本当に魔王は真剣な目つきになった。こんな顔は長らく戦場で向き合ってきた勇者も初めて見る。
「勇者よ、真面目に話すがな。お前だけはいつまでも清い心のままであってほしいものだよ。互いに命を削りあって戦ってきた好敵手が、ああなってしまっては目も当てられん。流石の私も少し落ち込むかもしれないからな」
勇者は訝しげに見上げたが、魔王は既にその話題に興味を失ったようだった。
「さて、本当にこれからどうしようかな……」
誰に言うともなくそう呟き、魔王はぼんやりと天井の向こう側にある空を仰いだ。
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