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前編
燭台の灯火が夜闇に染まった部屋をほんのりと照らし出している。豪奢な調度品は元々暗色で統一されていたが、燭台の光の当たった部分が金色の輝きを放ち、その黒さを更に際立たせていた。
薄暗い部屋の隅に配置された寝台には一組の男女が腰をかけていた。
「ああ、美しく誇り高い我が姫よ。貴女が私の妻となってから、早一年が過ぎようとしているのに、貴女はまだ心を開いてはくださらないのか」
王侯貴族を思わせる華美な意匠の黒衣を身に纏った男は、女の金髪を一房掬い上げ、そこに口付けをする。その面立ちは著名な芸術家が生み出した彫刻のように端整で、彼が女に傅いている光景はまるで一枚の絵画を思わせた。
しかし、その様子を見た女は実に不快そうな顔をした。
「私は貴方の妻などではありません。我が城から無理矢理に攫っておいて、心を開けなどと……」
姫と呼ばれた女はそう言って男の手を振り払う。長い金髪がぱさりと音を立てて落ちた。
「情のないことよ。数え切れぬほどの夜を共に過ごしてきておいて」
「それとて無理矢理ではありませんか!」
「そんな風には見えませんでしたがね」
「……この魔王め!」
「ええ、いかにも私は魔王ですよ」
男は華やかに笑った。
彼は魔王である。喩えでも言葉遊びでもなく、正真正銘本物の魔族の王であった。
魔王である彼は世界征服の途上、人間の王の娘であるこの女を攫い、自らの城に閉じ込めて妾妃としていた。要するに彼等は敵同士で夫婦となった訳である。女の側の意志を無視して。
「姫、無駄な努力はお止しなさい。御父上や兄君の救援を期待して強情に虚勢を張り続けているのでしょうが、ただ王の娘であるというだけの価値しか持たない貴女の為に、一体誰が貴重な国費と人命を無駄に消費させるとお思いか」
「価値ですって! 王族であるという以上の価値が一体どこにあるというのです。国を統べる者の為に臣民が心血を注ぐのは天の与えた義務でありましょう」
「傲慢なことよ。実に分かりやすい、典型的な『王族』ですな。まあ、不毛な議論はこのくらいにしておきましょう。今日は貴女に贈り物があって来たのです」
魔王が指を鳴らすと、どこからともなく臣下の魔族が現れた。姫はかっと顔を赤らめた。この魔族は今までのやり取りを全て聞いていたのだろうか。
そんな姫の心中など知らぬ風情で、異形の魔族は抱えていた包みを魔王に手渡すと、闇の中へと姿を消した。
「結婚一年目の祝いに」
魔王は包みを剥がし、姫の上半身ほどはあろうかというその品を両者の間に立てて見せた。
「鏡?」
装飾は凝っていたが、年代物と思わせる鏡だった。記念日の為に新しく作らせた物ではない。
「ただの鏡ではありません。近くは我が魔王城内から遠くは遥か地の果てまで、およそ人の視力では捉え得ない遠方の光景をも映し出してくれる魔法の鏡です。ずっと籠りきりでは退屈でしょう。せめてもの慰みに」
「貴方が閉じ込めているのでしょう!」
「貴女が魔王の妃たる自覚を持ち、私に心を開いてくだされば、いつでも好きなだけ外にお連れいたしますよ」
「『魔王の妃たる自覚』とな!」
「ええ、貴女にその素質があると認めたからこそ、我が城へお迎えしたのです。ですから、もっと自覚を持ってそのように振舞っていただかないと」
「なんたる侮辱……!」
屈辱で言葉が続かない。この男は姫が魔族に相応しい卑俗さを持った人間であると侮辱したのだ。神の許しを頂き、人間の世を治めることを認められた王族の一員である彼女を。
姫にとってそれは王族や全ての人間、果ては神に対する侮辱の言葉でもあった。
「心卑しい魔王が! そのような無体を働いていられるのも今のうちだけですよ。いずれ、必ず神意が下り王命を受けた勇者様が貴方を打ち滅ぼすでしょう」
自らの言葉に姫ははっと冷静に戻る。
(そう、きっとあの心優しい勇者様が私を救いに来てくださる)
そうして、彼女は少し頬を赤らめた。
「そうなってくれれば良いですね」
魔王は「ふふ」と笑うと踵を返し、重い扉の向こうへと姿を消した。
そして――
(そろそろ遊んであげようか)
そんな呟きが誰の耳にも届くことなく闇の中へと消えていった。
◇◇◇
人間の世界では「魔族の世界は永遠の夜に閉ざされている」と言われているが、実際には魔族の世界にも眩しい朝と昼はやってくる。
一夜明けて、姫は物思いに耽っていた。
「ああ、本当にお父様もお兄様も、勇者様も何をしていらっしゃるのかしら。私が攫われてからもう一年も経つというのに」
勇者の話だけは魔王の口から時たま語られることはあるが、父王と兄の王太子に関しては全く何も掴めない。そして、魔王城は姫がやって来てからも一日も欠かすことなく平穏無事であった。
「何か不測の事態でもあったのかしら。お父様、お兄様、勇者様、皆ご無事かしら。それとも、所在不明、難攻不落の魔王城との噂は伊達ではないと言うことか……」
「違うな」
「え?」
聞き覚えのない声がした。人のものとは思えない、地獄から這い上がってきたようなしわがれた声。
「違う。人間王も勇者も魔王城を落とせないんじゃない。落とす気がないんだ。あんたは本当に見捨てられたんだよ」
声の主の姿はない。間違いなく魔族の仕業である。
「何者です! 出てきなさい。そのような出任せを言って!」
「俺はあんたの目の前だよ。ほら!」
言われた通りに正面を見るが、やはり誰もいない。あるのは一枚の魔法の鏡だけである。昨晩、魔王に渡された物だ。
「どこにもいないじゃありませんか。下らない悪戯を」
「いるだろ、目の前に。ほら、鏡だよ。魔法の鏡だよ」
「まさか……」
声は確かに鏡から響いてきているように聞こえた。姫は息を呑んだ。
「あんた、魔法は見たことがないのかい? 生まれ育った城にも魔法使いはいただろう。勇者だって魔法を使っていた筈だ」
「そうですけど、でも鏡が喋るなんて……」
「なら、もう一つ魔法を見せよう。遠見の術だ。俺はその為にあんたに送られたんだからな。何が見たい?」
そう言えば、魔王も似たようなことを言っていた気がする。
信じられないが、本当にそれが可能ならば自分の境遇に少しは希望が持てるというものだ。鏡で得た情報を使って外に出られるかもしれないのだから。
「そうですね……」
だが、まず物は試し。昨夜の魔族の使い走りのように、誰が見ているとも限らない。
とりあえず、姫は当たり障りのない場所を選んでみた。
「では王城を。王城の私の部屋を映しなさい」
「了解さあ、お姫さん!」
鏡面が白く輝き、続いて見覚えのある映像が映し出される。
姫は思わず、「まあ」と声を上げた。
そこには物心付く前から過ごしてきたかつての自室が映し出されていた。室内は自分が生活していた頃のまま整えられていて、埃一つ被っていない。
「懐かしい。私が不在の間もちゃんと手入れをしてくれているのね。帰ったら女中達を誉めてあげなくちゃ」
姫が嬉しげにそう呟いた時、ちょうど鏡の向こうの室内に数人の若い女中達が入ってきた。
女中達はきびきびと室内を掃除している。その様子を見て姫はまた満足そうに微笑んだ。
すると、一人の女中が溜息を吐き、こう言い出したのである。
「ねえ、いつまでこの部屋掃除しなくちゃいけないんだろ。姫様はいなくなっちゃったんでしょ?」
別の女中が答える。
「国王陛下がもう良いと仰るまでよ」
「でも、行方不明になられてから一年もお戻りになられていないんでしょう。流石にもうお亡くなりになってるんじゃないの?」
「しっ、滅多なことを言うんじゃないよ。どこで誰が聞いてるか、分からないんだから。私等はただ言われた通りにここを掃除してりゃあ良いのさ。それでお給料が貰えるんだからね」
「ええーっ、余計な仕事が一つ増えるってだけでも気が滅入っちゃうよ」
「まだ、一つで良かったじゃないか」
「一つもあるじゃない。しかも、その一つの分量が重い……」
その後、ぶつぶつと文句を言いながらも女中達は掃除を続け、それが終わるとにこやかに談笑しながら姫の部屋を去っていった。
姫はわなわなと震えて怒り出した。
「何ということなの。あのような不心得者が我が城に仕えているなんて」
「いやあ、あんなもんだろ。上の人間の事情は下の人間には本当にどうでも良いことだからな。逆もまた然りだが」
鏡はからかうようにそう言った。
「お黙りなさい。魔王の使いが。貴方に何が分かるというの」
「分かるさあ。何せ俺は千里を見通す魔法の鏡だからな。さあ、次は何が見たい? 今日は後一回ぐらいなら見せてやることができるぜ」
「一回だけなの?」
不意打ちを受け呆気に取られたかのような表情で姫は尋ねた。
「ああ、俺にも魔力の限界ってものがあるんだよ。そして今日その一回を使っちまえば、魔力がすっからかんになり完全回復するのに一月かかる。魔力満タンの状態で魔法が二回使用できるから、次に遠見の魔法が使えるのは最短で半月だな」
「使えないですね。そんな程度しか外が見られないのなら、慰みになんてならないじゃありませんか」
「酷い言い草だな。ないよりましだろ」
「ないよりはね」
鏡は苦笑する。
「本当に酷いなあ。で、他に見たいものはないのか?」
「そうですね」
次の一回の為に後半月も待たなければいけないというのならば、今度は慎重に選ばなければならない。
そこでふと父の顔が浮かんだ。ここ一年全く音沙汰のない家族は無事でいるだろうか。否、城の自室が無事ならば彼等も当然無事であろうが。
それよりも魔王城からの逃走経路を探す方が先ではないか、という思いと板ばさみにはなったが、結局言い知れぬ不安を拭い切ることができず、姫は決断する。
「では、お父様のご様子を。元気にしていらっしゃるかしら」
「はいよ。じゃあ、映すぜえ」
再び鏡面が白く光り、謁見の間の王座に座る父王の姿が映し出された。
側には王太子である兄も控えている。重臣達はいないようだった。
「お父様……。お兄様もご一緒なのね。お二人ともご無事で良かった」
そうして、姫は鏡の向こうの会話に耳を傾けた。
話題はちょうど自分に関することのようだ。
「姫がいなくなって、もう一年になりますね」
「ああ」
「どうされるおつもりです。まだ、体面の為の捜索を続けられるのですか」
「不満か?」
「ええ、不満ですとも。折角、軟弱な臣民を鼓舞し魔王領に侵攻する為の口実を得たというのに、父上は真実を隠してしまわれた」
「その話は以前にもしただろう。下手に騒ぎ立てて、攫われた姫が魔王の妾となっていることが公となっては困るのだよ」
その言葉を聞き、姫は思わず「え?」と声を漏らした。
「そんなことが知られてしまえば、王家の権威は地に落ちたも同然となるだろう。しかも報告によれば、あれはまだ魔王城で存命のようだよ。まったく我が娘の愚鈍さにはほとほと困ったものだ。長らく育ててやった恩も忘れて、足手まといになることしか出来ぬとは。王女たるもの、そうのような辱めを受ける前に自ら命を絶つべきであろう」
「しかし、どうします。臣民達の中には既に魔族の関与を口にする者も出始めていますよ。まして、姫が生きて帰ってくるようなことがあれば……」
だが、言葉に反して王太子の表情は朗らかだった。
「何か考えがあるという様子だな。言ってみろ」
「はは、やはり父上は私のことをよくお分かりだ。……偽物の、姫の死体を用意するのですよ。そして、姫が魔族に殺されたと周知させる」
「なるほど。それで臣民を扇動でき、万一本物の姫が戻ってきたとしても、それは魔族が我々を惑わす為に用意した偽者と言い張ることができると言う訳か。良案だ。許す」
「では、早速手筈を整えましょう」
王太子は嬉々として踵を返し謁見の間を去っていった。
姫は唖然として呟いた。
「何を仰っているの?」
すると突然、鏡面の映像が消える。
「消えてしまいましたよ。どうしたと言うのです!」
鏡を揺さ振るも反応がない。返事すらない。まるで生物が命を失ったかのようだ。
そこで姫は気付いた。
(……魔力切れ)
鏡が言葉を発する、それもまた魔法の一種であったのだ。
「魔力が切れると、話すこともできなくなるのね」
それにしてもと、姫は先程の父と兄の会話を思い出した。
(まさか、そんなこと……)
信じられない。自分はずっと愛されていると思っていた。自分も彼等を愛していた。
だから、信じられない。信じたくない。
(これはきっと幻なのだわ。あの魔王が私を陥れる為に見せた魔法に違いない。なんて卑劣なのかしら)
そう自分に言い聞かせてみる。あの性根の腐った魔王が好みそうな手口だ。
(けれど――)
仮にこれが魔法であったとしても、やはり父や兄は魔王の手に落ちた自分を厭わしく思っているのではないだろうか。先程鏡が見せた会話は真実の映像ではなくとも、彼等の本心に近いものだったのではないだろうか。
◇◇◇
「浮かない顔だな、愛しい姫よ。折角、久方ぶりに夕餉を共にできたというのに」
「私はそれを喜ばしいことだとは全く思いません」
「おやおや。今日もまた冷たいことだ」
冷淡で礼儀を弁えない姫の態度もまるで気にならないという風に魔王は笑った。
何度こんなやり取りを繰り返しただろうか。よくもお互い飽きないものだと姫は溜息を吐く。
「そう言えば、先日勇者がどうのと仰っていましたが、最近戦場で勇者を見掛けなくなりましたな。代わりと言っては何ですが、貴女の兄上がかなり大規模な軍備の増強を計画しているようですよ。優秀なたった一人に世界の命運を全て押し付ける無責任政策は切り捨てて、いよいよ本格的に我が領土へ侵攻を開始するつもりなのですかな」
魔王の話は先日魔法の鏡が見せた父と兄の会話に繋がっている。あの後、兄は言葉通りに妹の死を偽装し、民心を掴むのに成功したということなのだろうか。
(まさかお兄様、本当に私のことをお見捨てになったの)
そんな考えが一瞬脳裏を過ぎったが、すぐに打ち消した。
(いいえ、あれは嘘。ただの幻覚)
今迄何度もやってきたように、否定の呪文を頭の中で唱えた。
一方、魔王は姫の心中を気遣うことなく話を進める。
「彼のこともね。実を言うと私は嫌いではないのですよ。いや、彼の朴訥さと言うか愚直さと言うか、そういう真っ直ぐな所は素直に好感を持っていますし、あの強さは敬意に値します。だからこそ勿体無いと思うのですよ、人間の世界には。まあ、彼も人間ですけどね」
「彼?」
珍しく魔王が子供のように顔を綻ばせるので、姫は思わず合いの手を入れてしまった。
すると、魔王は悪戯っ子のように、にやりと笑った。
「勇者のことです」
姫は目を見開いた。ここ数日、父や兄のことにすっかり気を取られていたが、自分にはもう一人安否を気に掛けていた人間がいたことを思い出したのだ。
彼は父や兄以外に唯一姫を救い出せる存在でもあった。
(そうだ、勇者様。あの方がいらっしゃる)
曇り空のように閉ざされていた姫の心に一筋の光が差した気がした。記憶の底に追いやられていた勇者の姿が鮮やかに蘇る。
(美しくお優しい方。あの方は私を守ってくださると仰った。私はあの方をお慕いしていた。そして、あの方も私を愛してくださっていた筈!)
力強い希望を得た姫はうきうきと食事を進めた。
そして、夢想に酔いしれる姫の姿を見た魔王は、人知れずほくそ笑んだ。
◇◇◇
勇者を頼るにしても、まずは彼の所在を掴まなければならない。姫は魔法の鏡が復活する日を今か今かと待ち続けた。
そして、魔法の鏡が力を失ってから半月後――
「魔法の鏡! 半月経ったわ。もう魔法が使えるはずね」
「あ……」
魔法の鏡が何か答えようとするのを姫は即座に止めた。
「喋らなくていいわ。貴方は会話にも魔力を消費しているのでしょう? それよりも、勇者様を映し出して頂戴。あの方は今どうしていらっしゃるかしら」
その言葉を聞いた魔法の鏡は無言のまま、勇者の映像を映し出した。
姫は恍惚とした表情を浮かべる。
そこには姫の記憶のままの若く美しい勇者の姿が映っていた。
「ああ、私の勇者様……」
鏡に映る勇者は登城の折とは違い、簡素な身なりをしている。平民の普段着のようだ。
彼の前には白い髭を蓄えた見知らぬ老人が座っていた。勇者は老人の手に自分の利き腕を預けている。
「どうですか、先生?」
「日常生活は何の問題もなく過ごせるようになるでしょう。斧や鍬を扱う分には支障はありませんし、剣も持つだけならば問題はありません。ただ、剣士としてはもう……」
「そうですか……」
「全く望みがないという訳ではありません。経過を見ましょう」
「……有難う御座います」
見れば勇者の腕には生々しい傷跡がしっかりと刻まれていた。
「怪我をなさったの? ああ、お可哀想に……」
そう、確かにこの時姫は勇者を可哀想と思ったのだ。しかし、次第にその感情は不安と焦燥に取って代わられる。
勇者を診ていた医者は彼が二度と剣士には戻れないと言っていた。もし本当に父や兄が自分を見捨て、勇者が戦えなくなってしまったというのなら。
(一体誰が私を助けてくれるというの!)
勇者の腕に巻かれていく包帯を見つめながら、姫は心の中で勇者と医者らしき老人とのやり取りを反芻する。
先程、老人は「全く望みがないという訳ではありません。」と言っていた。ならば――
「回復の可能性が全くないという訳ではないのよね」
鏡が再び魔力を失い鏡面から勇者の姿が消え去った後も、姫は何かに取り憑かれたように鏡を見つめ続けた。
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