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「はーっ……疲れた」
人混みを掻き分けて、最寄り駅から徒歩5分のタワーマンションのエレベーターに乗り込む。
ようやく自分の部屋に着いて、帽子とマスクを取り払うと大きな黒革のソファーにだらしなく背を預けた。
今日は貴重な一日オフデーだったので、買い物でも行こうかと外に出たのが間違いだった。先日発売したニューシングルのせいで、どこへ行っても自分の歌声と話題が耳に入る。
自分の存在感を消すことに必死で、ウインドウショッピングですら自由にできなかった。
唯一手にしたデニムパンツも、試着出来ないまま購入したので、サイズが合っているか分からない。まあ合わなかったらメンバーの誰かにあげればいい。
試しに履く気力もないので、とりあえず煙草でも吸おうかと、ベランダに出た。
スカイツリーが望める52階のこの部屋は結構気に入っている。夕陽に飲み込まれたトウキョウの街が、オレンジに染まっている。この街にどれだけ自分の存在を知っている人が居るのだろう。
「王子様の市瀬帆多留」を知る人は、きっとごまんといるけれど、本当の自分を知っている人は片手で数えておさまってしまう。
念願のデビューを果たしたことも、ナンバーワンに登り詰めたことも、嬉しくないわけがない。
けれど、いつの間にか作られた自分のキャラクターに世間が騒いでいるだけだと思うと、時々虚しくなる。
荒んだ心を一気に浄化してくれるような夕暮れの景色が、帆多留を癒していく。
メビウスの箱から煙草を一本取り出してくわえ、火をつけたところでインターフォンが鳴った。
この時間は大抵マネージャーの酒井が煙草やらビールやらを買って持ってきてくれる時間だ。
「いつどこでパパラッチに付き纏われているか分からないからね」
日頃から口酸っぱくそう言われている。
写真が流出したらイメージが崩れるからと、煙草やアルコールすら自分で買うことは禁止されている。
まったく、よくやるよな。パパラッチさんたちも。
不便だけれど仕方ない。自分はオウジサマなのだから。
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