191人が本棚に入れています
本棚に追加
バレたなら仕方ない。と、帆多留は青年を睨んで低い声を出す。
「いいか? 言うなよ。絶対。俺がここに住んでることとか、煙草、吸ってることとか……こんな、口悪いこととか」
「言わないっすよ」
口先だけでは、どうとでも言えるだろう。
うっかり口を滑らせそうなこの青年を、簡単に信じろという方が無理だ。
「まじで言わない? なんなら口止め料渡すから絶対誰にも言わないで欲しい、頼む」
念を押しつつも帆多留には諦めの感情が立ちこめていた。本日で市瀬帆多留の王子様キャラは終了だ。
パパラッチより普通の若者の方がたちが悪いかもしれない。若者の情報網は凄い。どうせすぐSNSで拡散されて明日にはネットニュースにでもなってるんだろ。
王子様市瀬帆多留、じつは愛煙家で口も悪い? 品の良さはビジネスか。
みたいな記事が。
「いや、隣の部屋に誰が住んでるとかどんな人だとか、わざわざ友達に言う話じゃないし。そんな話題出されてもシラケません?」
だから別に言いませんよ。
なんて事ないような口ぶりでそう返され、呆気に取られる。
「明日大学の入学式なんすよ。第一印象って大事じゃないっすか。周りから面白い奴って思われたいんで、盛り上がるようなネタいっぱい考えてて!」
ははっ、と軽快に笑うナカノに何も言葉を返せなかった。
中学生で事務所に入ってから、それまで自分を空気のように扱っていたクラスメイトから急に連絡先を聞かれたり、俳優の誰々とかアイドルの誰々とかのサインを頼まれたり、会ったこともない遠い遠い親戚の結婚式に呼ばれたりした。
みんな、「芸能人と仲の良い自分」に、酔いしれたい、自慢したい、ようだった。
誰もがそうだと思っていた。
優越感や承認欲求みたいなものを埋めるのに、芸能人との距離の近さというのは、バツグンにいい材料になる。
それなのに。
ナカノは、自分では驚いたくせに、それはさておき、帆多留を本当にただの「お隣さん」として見てくれているようだった。
何も答えずに俯いた帆多留に、ナカノは勘違いしたのか、
「あの? 具合悪いっすか?」
と、慌てて顔を覗き込んでくる。
さっきも、モニター越しでも思った。
目力のある瞳だ。
きらきらしていて、純粋で、けれどしっかりと意思を持った瞳。地位や肩書きという馬鹿らしい色眼鏡で人を見ることを知らないような、綺麗な瞳だ。
自分みたいな、作り物のきらきらなんかじゃない。本物の輝き。
「いちのせさーん?」
その瞳に、目を奪われてしまい、名前を呼ばれてようやく我に返る。
「大丈夫。じゃあな」
そう言って返事を聞く前にバタンとドアを閉める。
しばらく、ナカノの瞳が忘れられず、その場に立ち尽くして意味もなく何度も菓子折りの角を指でなぞる。
入学式って言ってたよな。やっぱり、大学生なのか。普通の学生が、何でこんなマンションに住んでるんだ。
親が社長とかか? 兄弟はいるのか?
彼女は?
そこまで考えて、たかがお隣さんの素性を気にしている自分に気付いてハッとする。
馬鹿らしい。早いけど、夕飯食って台本チェックしてさっさと寝よう。明日も早くから仕事なんだ。
菓子折りは念の為に明日、酒井に渡して中身を確かめてもらおうと、ローテーブルに置く。
窓から溢れるオレンジの夕陽が、テーブルの上のそれを照らしていた。
最初のコメントを投稿しよう!