エストレリャス

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闇夜であった。 夫となり、ほどなく父親にもなろうというのに、男は結婚式の三日後に、慌(あわ)ただしく墨国(メキシコ)に飛び発(た)った。 いや、発ったのではない。 去ったのである。 男の指に有ったはずの結婚指輪は、男の実家の納戸(なんど)の片隅に、むき出しのまま、転がされていた。 男との連絡は途絶えたが、男の実家にはエアメールが届いて、現地での女性たちとの関係があからさまに綴られており、 『付録(ふろく)つきと知られたくない。墨国(ここ)では独身で通している』 とあった。 内容を判ずれば「絶縁状」のソフトな形態かと思えた。 ソフトというのが優しさを意味せず、ハードでタイトな情況を男から押し置かれたままに日は経(た)った。 お腹にいた娘が生まれ、母子(おやこ)で五年 待ったが、いよいよ霧は濃く、闇は深まるばかりである。 光無く、音も無い世界だった。 当時であっても、何かしら「音」や歌には触れたはずなのに「楽」の 一文字は生活から消え失せ、喜びも笑いも遥か遠くに去って久しく、闇に呑まれた世界は息も絶え絶えであった。 六年めに、娘と二人、墨国(メキシコ)に渡った。事実の見極めと、離別の為の旅である。 夫婦が、やっと相対したのがマリアッチ(婚礼音楽)洪水の地というのは、ワールドワイドな皮肉だ。 再会は果たしたが、連日の雨夜(あまよ)で、男の声音(こわね)は以前にも増して冷たく湿り、太陽の国に居てさえ心は凍える。 男に繋いでいた希望の糸を切り離して手(た)繰り寄せ、娘と二人、帰還した。
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