45人が本棚に入れています
本棚に追加
何事もなく、年月は過ぎて行き、葵も、すっかり大人っぽくなった。
帰って来る度に「葵、まだ結婚話は無いのか」と
村の婆様達に聞かれるようになったが「まだまだ、そんな話は無いわ」
葵はそう言って笑う、だが、葵は、義治にも言っていない事が有った。
二十歳の時、勤めている病院の院長の一人息子、一郎と付き合う様になり
一郎は、葵と結婚したいと、両親に言ったが、田舎の高校しか出ていない
身寄りの無い葵は「どこの馬の骨とも知れない娘」と言う事で
両親の、猛反対を受けた。
一郎は、そんな両親に腹を立て、家を出ると、小さなアパートを借り
葵と一緒に住むようになった。
「何と言う事!!みんなあの娘が、そそのかしているのよ」
母親は激怒して、葵を罵った。
「まぁまぁ、一郎もまだ若い、今は、あの子に夢中だろうが
歳をとれば、自分の立場も分かって来るさ」と言う、父の言葉で
二人の事は、暫くそのままにして置く事になった。
そんな両親に、自分の稼ぎでも養える所を見せようと
一郎は、葵の病院勤めを辞めさせた。
美しくて優しい葵は、男性職員や若い医師達に人気で
皆が、ちやほやするのも、気に入らなかった、葵は、俺だけのものだ
一人っ子で、甘ちゃんの一郎は、歳の割に子供っぽかった。
しかし、仕事の面では、腕の良い外科医として、皆に一目置かれていた。
家は出たが、病院には、そのまま務めてくれている。
両親が、葵との事を黙認していたのも、その為だった。
どんなに仕事で疲れていても、家に帰れば、葵がその疲れを癒してくれる
朝は、気持ち良く仕事に送り出してくれる、一郎にとって
葵は、無くてはならない存在だった。
そんな生活が、もう7年も続いていた、去年、外科部長になった一郎は
貯めていた貯金で、マンションを買い、更に葵との生活を充実させた。
葵は、実質的な妻と言う暮らしだったが、籍も入れていない。
それでも良いと言う思いと、このままでは、いつか
別れが来るのではないか、と言う恐れとが、半々の気持ちで暮らしていた
今度帰ったら、思い切って義治に相談してみよう
そう思っていた矢先の訃報だった。
「何で死んじゃったの、動けなくなったら、私が面倒を見るって
約束してたじゃない」葵は、義治にすがって泣いた。
長い間、陰になり陽向になって、葵を支えてくれた義治の死
本当の子供の様に、愛してくれた義治の死
葵の心は、とてつもない大きな喪失感と、悲しみで覆われた。
重い心と足を引きずりながら、マンションに帰り、服を着替えて
ぼーっと座っていたら、チャイムが鳴った。
一郎は、一昨日から学会で、ストックホルムに行っている。
誰だろうと、モニターを見ると、病院の顧問弁護士の近藤だった。
「こんな時間に、家に来るなんて、一体なんだろう」嫌な予感がした。
部屋に通して、お茶を出し「何の御用でしょうか」葵がそう切り出すと
「実は、一郎さんと結婚したいと言う方が居まして、貴女には
身を引いて貰いたいと、病院長夫妻は、希望されています」
やはり、嫌な話だった、一郎が居ない間に、事の決着をはかるつもりだ。
その相手は、日本医師会のトップに居る人の娘だと言う。
何かのパーティで、一郎を見て気に入ったそうだ。
この話を断れば、一郎が医師として働く場所を失うだけで無く
病院そのものも、潰れてしまうかも知れない。
そうなれば、病院で働く多くの職員、何より患者さんに迷惑が掛かる。
結婚すれば、病院は安泰どころか
更に大きく飛躍するのは、目に見えている。
一郎が、この話を断れないと言う事は、近藤が説明するまでも無く
葵にだって分かる、多くの人の迷惑を顧みず、二人だけの幸せを追う事は
今の一郎には、出来ない事も分かっていた。
妻同様に暮らしていた、この7年間は、本当に幸せだった。
その7年間が、走馬灯のように浮かんでは消える中で
何で今なの?先生が死んでしまった、こんな悲しい時に
何でまた、こんな悲しい事を言って来るの
葵の目から、ぽろぽろと涙が零れた。
「貴女には、一郎さんがお世話になった、7年間のお礼として
このマンションを受け取って貰います。
また、事務員として、働きたいと言う希望が有れば、この三つの病院
どこでも、いつでも貴女を雇ってくれる様に、話はついています」
近藤はそう言って、テーブルの上に、三枚の名刺を置いた。
葵も良く知っている、病院の院長たちの名刺だった。
「何かで、保証人が必要になった時は、私共の事務所まで連絡して下さい
いつでも、保証人になります、身内が一人もいらっしゃらない
貴女の事を、一郎さんは、特に心配しておりました」「えっ」
葵は驚いた「一郎さんは、この話、何時から知っていたんですか?」
一昨日、出掛ける時は「留守中は、身体に気を付けるんだよ」と
いつもの優しい態度だったからだ。
最初のコメントを投稿しよう!