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葵が、怒っていなくて、何時もの様に優しい言葉を掛けてくれたので
一郎は、泣くのを止めた。
「一人で、やって行けそうか?」「大丈夫よ、マンションも貰ったから
住む所には困らないし、就職先も手配してくれたから、何時でも働けるし
生活費も、沢山貰ったから、何も心配は要らないわ」葵の明るい声に
「葵が、お金を貰ってくれたので、ほっとしたよ」と、一郎は言う。
「受け取らなかったら、一郎さんが心配するだろうと思って」
「葵は、本当に優しいなぁ~声を聞いているだけで、癒されるよ」
「そう?でも、お相手の方の為にも、もう電話して来ちゃ駄目よ」
「分かった、もう電話はしないよ、でも、他の女と結婚しても
俺が好きなのは、葵だけなんだから、何か困ったら、葵からは
いつでも電話して来て良いんだよ」一郎の、そんな言葉を遮る様に
「一郎さんの荷物、何処へ送れば良い?」葵は、話を変えた。
「それがね、母が、葵の所に有る物は、全て処分して貰えって言うんだ
だから、処分してくれないかな」一郎の母は
葵と暮らしていた時の物を見て、一郎が心を乱す事を恐れている様だった
「そう、分かったわ、じゃ、新しい生活、頑張ってね、さようなら」
「うん、葵も頑張ってね、さようなら」
電話を切った時点で、7年間の全てが終わった。
虚しさが襲って来て、葵は枕に顔を埋めて泣いた。
そんな葵の部屋のドアの外に、銀は立っていた。
腰に差した扇を抜いて広げ、そっとドア越しに扇ぐ。
「葵様に、穏やかな眠りを」そう念じながら、葵が眠りにつくまで
ずっと扇いでいた。
銀の祈りが通じたのか、葵はぐっすり眠り、いつもの様に
爽やかに目覚めた。
両手を伸ばし、う~んと伸びをすると
「さぁて、新しい生活を始めるとするか」自分に言い聞かせるように言う
『辛い事は、出来るだけ早く忘れて、楽しい事は
何時までも、忘れないでおく事』辛い事が多かった葵に
義治が、何時も言い聞かせていた言葉を、心の中で呟く。
居間のドアを開けると、銀が、ソファーに正座していた。
「銀、おはよう」「葵様、おはようございます」元気な葵の顔を見て
銀は、安堵した顔になった。
「さぁて、今日は、どんなお天気かな?」葵はそう言って
テラスに続く、掃き出し窓のカーテンを開けた。
明るい日差しが、部屋の中まで届く「わぁ~良いお天気、銀、見て」
葵の姿を、目で追っていた銀は、大きな布が開かれ
透き通った大きな、ギヤマンの窓の上に、青い空が広がっているのを見た
葵の傍に駆け寄って、20階からの東京を見た銀は、声も出なかった。
「こ、これが、今の江戸ですか?」やっと声が出る。
「そうよ、随分変わったでしょ」変わった処では無い
まるっきり別物だと、銀は思った。
四角くて大きな建物が、にょきにょきと建ち並び、それより小さい建物も
銀が居た、江戸の面影は、何ひとつ残っていない様に見えた。
広い、滑らかな道らしき所には、大小の長四角な物が
並んで走っている、まるで、蟻の行列の様だった。
「あれは?」「ああ、車よ」「車?随分多いですね
何をしているのです?」「車に乗って、移動しているの」
「では、あの中に人が入っているのですか?」
「ええ、銀も後で乗る事になるわ」「私も?」
「そうよ、今日は出かけるからね」葵は、全ての窓のカーテンを開け
顔を洗って、目玉焼きを作ると「何も無いけど、ご飯にしよう
顔を洗って」と、何時までも、外を見ている銀に、顔の洗い方を教えた
昨日、コンビニで買った、菓子パンと目玉焼き、インスタントのスープ
それしか無かったが、初めて食べる銀には、どれも好評だった。
「ふわふわで甘いこれは、何ですか?」「パンよ」「この汁は?」
「カボチャのスープよ」「これは?」「鶏の玉子を焼いた物よ」
「これ、凄く美味しいですね~」皿まで舐めそうな勢いで食べる。
食後に、葵は珈琲を淹れたが「銀には、無理かな」と、煎茶を入れた。
「お茶ですか?こんな高級な物を、有難う御座います」
銀は、嬉しそうにお茶を飲んだが、葵の珈琲を見て
「真っ黒ですね、そんな物が美味しいとは、思えませんが」と、言う。
「でも、香りは良いでしょ」「はい、何とも不思議な香りで
心が安らぐような気がします」「じゃ、一口飲んでみる?」と
葵がスプーンですくった珈琲を飲んだ銀は「苦いです~」と顔をしかめた
「やっぱり銀には、無理だったね」葵は笑いながら
銀のお陰で、寂しい朝食にならなくて良かったと思った。
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