コロナの時代を救う(真宗聖典)

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コロナの時代を救う(真宗聖典)

コロナの時代救う、 阿弥陀仏(あみだぶつ)に全てをゆだねるところに救いがある、 人間(にんげん)とは、 弱い存在であることを、 自覚(じかく)して認め、 阿弥陀仏(あみだぶつ)を信じて、 念仏(ねんぶつ)を、 (とな)え、 信心(しんじん)を持った瞬間に、 人間は阿弥陀仏に救われている、 親鸞聖人(しんらんせいじん)の教えである、 真宗(親鸞聖人の教え)を日ノ本に広め多大な貢献を果たしたのが、 真宗教団中興の祖である、 蓮如上人(れんにょじょうにん)です、 蓮如上人は親鸞聖人の教えを簡潔平易に説き書き与えた、 蓮如上人は御文(蓮如上人が門徒に書き与えた手紙形式の法語)と言った、 蓮如上人が真宗の復興に成功しえた理由として、 御文が大きく関りを持つ、 御文は真宗の教義をわかりやすく解説したもので、 これが一般の人々に広く受け入れられる要因になった、 蓮如上人は、御文を各地の門徒に手紙にして送った、 その数は何百通にも及ぶといわれている。 親鸞聖人の教えの普及に多大な貢献を果たした。 蓮如上人の御文(のち真宗では御文書と呼ぶ)を聴聞する。 【御文書(ごぶんしょう)】 『白骨(はっこつ)の章』 それ、人間(にんげん)浮生(ふしょう)なる(そう)をつらつら(かん)ずるに、 おおよそはかなきものは、この()始中終(しちゅうじゅう)、まぼろしのごとくなる一期(いちご)なり。 されば、いまだ万歳(まんざい)人身(にんじん)をうけたりという(こと)をきかず。 一生(いっしょう)すぎやすし。 いまにいたりてたれか百年(ひやくねん)形体(ぎょうたい)をたもつべきや。 (われ)やさき、(ひと)やさき、 きょうともしらず、あすともしらず、 おくれさきだつ人は、もとのしずく、 すえの(つゆ)よりもしげしといえり。 されば(あした)には紅顔(こうがん)ありて(ゆう)べには、 白骨(はっこつ)となれる()なり。 すでに無常(むじょう)(かぜ)きたりぬれば、 すなわちふたつのまなこたちまちにとじ、 ひとつのいきながくたえぬれば、 紅顔(こうがん)むなしく(へん)じて、 桃李(とうり)のよそおいをうしないぬるときは、 六親眷属(ろくしんけんぞく)あつまりてなげきかなしめども、 (さら)にその甲斐(かい)あるべからず。 さてしもあるべき(こと)ならばとて、 野外(やがい)におくりて夜半(よわ)のけぶりとなしはてぬれば、 ただ白骨(はっこつ)のみぞのこれり。 あわれというも中々(なかなか)おろかなり。 されば、 人間(にんげん)のはかなき(こと)は、 老少不定(ろうしょうふじょう)のさかいなれば、 たれの(ひと)もはやく後生(ごしょう)一大事(いちだいじ)(こころ)にかけて、 阿弥陀仏(あみだぶつ)をふかくたのみまいらせて、 念仏(ねんぶつ)もうすべきものなり。 あなかしこ、 あなかしこ。 『現代語訳(げんだいごやく)』 さて、 人間の浮き草のような姿を、 つくづく()てみれば、 およそはかないものは、 この世に生まれ、 生き、 死んでいく、 まぼろしのような一生である、 いまだ一万年の身を、 受けたということは聞かない。 一生はあっという間に過ぎてしまうものだ。 今、だれが100年の肉体を保つことができよう。 私が先か、他人が先か、 きょうともあすともわからない。 遅れて住く人も先だつ人も、 木の根元のしずくや葉先の(つゆ)が、 (しげ)く落ちるより多い。 朝に紅顔(こうがん)と思っていても、 夕べには白骨となる身である。 無常の風が吹き来れば、 二つの(まなこ)はたちまち閉じ、 ひとつの息は、 永遠に途絶えてしまう。 みずみずしい紅顔むなしく変化し、 (もも)(すもも)のような新鮮さも失われてしまう。 親類中が集まって嘆き悲しんでも、 なんの甲斐もありはしない。 いつまでもそうはしていられないので、 野辺の送りをして夜半に荼毘(だび)に付してしまえば、 煙となってただ白骨だけが残る。 それをあわれというのも愚かなほどつらいことだ。 そのように、 人間のはかなさは、 老いも幼きもない不定(ふじょう)の境涯だから、 だれであれ、 早く死後という一大事を心に受け止め、 阿弥陀仏を深く信じて、 念仏するべきである。 御文書(ごぶんしょう)白骨(はっこつ)の章を読み終えて感じた、 現代はコロナの時代となり、 初めて死を実感し身近に感じるようになり、 コロナに対する価値観の違い等によって、 生きにくさを感じ始めた、 前年の流行語大賞の中に、 アマビエが選ばれた、 アマビエは疫病の流行を告げるとされる妖怪だ、 摩訶不思議な存在、 妖怪アマビエに助けを求めた、 この事柄が示すように、 庶民は、 なにか自分を超えた存在、 例えば宇宙や真理などを実感し、 繋がりたいという、 欲求に突き動かされているのではないだろうか、 死後は火葬され、煙となり分子や原子のようになり、 死後も姿をかえて宇宙を支えつつ存在する、 私たちが宇宙の一部であることは、 科学的にも否定できないことである、 このように考えることができれば、 同じ宇宙に存在するもの全てと連帯感を持てる。 【御文書(ごぶんしょう)】 『聖人一流(しょうにんいちりゅう)の章』 聖人一流(しょうにんいちりゅう)の、 御勧化(ごかんげ)のおもむきは、 信心(しんじん)をもって(もと)とせられ(そうろ)ふ。 そのゆるは、もろもろの雑行(ぞうぎょう)を投げ捨てて、 一心(いっしん)弥陀(みだ)帰命(きみょう)すれば、 不可思議(ふかしぎ)願力(がんりき)として、 仏のかたより往生(おうじょう)治定(ちじょう)せしめたまふ。 その位を一念発起入正定之聚(いちねんほっきにゅうしょうじょうのじゅ) とも(しゃく)し、そのうへの称名念仏(しょうみょうねんぶつ)は、 如来(にょらい)わが往生(おうじょう)を定めたまひし、 御恩報尽(ごおんほうじん)の念仏とこころうべきなり。 あなかしこ、あなかしこ。 『現代語訳』 親鸞聖人がお勧めになるその趣意は、 信心を根本とされているということである。 そのわけは、 さまざまな雑行を捨てて一心に阿弥陀仏に帰依すれば、 人間の思議を超えた願力によって、 阿弥陀仏のほうから往生を決定してくださるからである。 その位を、 一念発起入正定之聚とも解釈する。 そのうえの念仏は、 如来が私の往生を定めてくださった、 御恩に報じるための念仏だと心得るべきである。 このコロナの時代の願望に、 もっとも願望成就するのは、 真宗といえるかもしれないと信心した、 真宗は仏教の宗派ではあるが、 それを超えてもっと現代の庶民を、 救う可能性をもっているように思える、 コロナの時代を救う、 可能性をもっとも秘めている、 真宗聖教その教法を聴聞する。
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