絡新婦(じょろうぐも)

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絡新婦(じょろうぐも)

 妊娠検査薬に陽性反応が出た。  でも高校生の小遣いだけで出来る事はここまでが精一杯だ。  彼に話したら何て言ってくれるだろう。優しい彼の事だから『産んでくれ。一緒に暮らそう』なんて言ってくれるのだろうか。  『心配するな』そのひと言が欲しかった。ただそれだけ。  それだけなのに。  大きな不安と小さな期待を胸に、彼の元へ行った私を待っていたのは――  絶望と過酷な仕打ちだった。  部屋には、彼の友人なのだろうか。もし町で見かけても目を逸らし離れて歩いてしまうような、柄の悪そうな人達が何人も居た。 「え…と、あの、お友…達…?」 訳が分からず怯える私。そんな私の反応を眺めて粘つくような笑みを浮かべる彼らの興味が、衣服を貫いてその奥――肢体(からだ)へと向けられているのを感じ、体中を蛞蝓が這い回るような嫌悪に身を縮ませる。 そんな私に向けられた、彼らの嘲笑と、放り投げられた彼からの言葉。 「ソイツ好きにしていいよ」  これは私への罰なのだろうか?  ほんのちょっとばかり、大人の恋愛に憧れてしまったから?  今まで真面目一辺倒に生きてきた私が、道を踏み外したから?  悲鳴をあげられたのはいつまでだったろう。全身を貫く熱い悪寒、脳が灼けるような衝撃と、強制的に奪われる理性に追い付かない恐怖心。そして抗おうにも抗えなかった、厭悪すべき快楽。  道端で倒れているのを発見され、救急車に乗せられたらしい。  らしい、と言うのは、あれからどうなったのかよく覚えていないのだ。衣服も原型を留めないほどにボロボロなっていたという話だった。  病院のベッドの脇で静かに泣く母から教えられた。  ――妊娠していた子は流産したよ、と。  父も母も何も聞こうとはしなかった。  聞けなかったのか、聞かなかったのかは分からないけど。  その時は、失われたお腹の子の事も、何をされたのかという事も気にならなかった。それよりもせっかく背中の半ばまで伸ばしていた髪が切られていた事が悲しかった。  警察沙汰にはならなかった。彼の家の権力なのか、私が悪いのだと呆れられたのかまでは分からない。  入院して数日は何事も無く過ごせていた。  けれど回診に訪れた医師を見て、私は半狂乱になったらしい。  らしい――というのは、自分では覚えていないから。看護師によると、医師を見た途端に怯えて泣き出したという――言い澱んでいたところを見ると、もっと非道い状況だったのだろう。  診察に来た医師は――男性だった。  PTSDと診断された私は精神科病棟に移され、漸く退院出来たのは半年後だった。  見舞いに来ていた友達も、精神科に移ってからは連絡も途絶えたままだ。友達には何と伝わっていたのだろう。けれど気にしたところでどうしようもなかった。高校は中退扱いになっていた。  退院した私は、小さな町工場の事務員としての仕事に就いた。事務のやり方は働きながら教わった。そうして数ヶ月が過ぎた。  職場の同僚にも恵まれ、身体の傷が癒えた。そんなある日。  彼を見かけた。  彼の左手は知らない女の腰に回されていた。  幸せそうに。無害な好青年の顔で笑っていた。  それを見た私は――  魂のカサブタを無理矢理引き剥がされるような感覚に我を失った。  全身を汚されるあの感覚が、ようやく塞がった傷口から吹き出してくる。  薬物による強制があったとはいえ、あの時の強烈な快感に疼いてしまった自分の身体に心が、魂が悲鳴をあげる。  私はもう、壊れているんだ。  見送って、踞って、吐いて、泣くしか出来なかった。  私はこんなに苦しんでいるのに、何故あいつは笑えるんだ。  他人を騙し、踏み躙り、食い物にして苦しめるような人間が何故、平然と歩いていられるんだ。  悪いことをすると神様が見ているよと、小さな頃に教わった。  けど、見ている事と罰をあてる事は別なのだ。  神が罰するというのならば、今すぐに電柱が倒れて彼の頭を直撃するはずなのに。今すれ違ったトラックから零れ落ちた鉄パイプが彼を串刺しにするはずなのに。  悪い事をしても神が罰しないと言うのなら。  私が彼を殺してやりたい。  それができないと言うのなら――  いっそ死んでしまいたい。  何日も仕事を休んだ。やっと見つけた仕事先からは、申し訳ないけれど、と解雇の連絡が来ていた。メール画面に泣きながら頭を下げて謝った。  そうして全てを奪われた気持ちになった私は、ベッドの上で布団を頭から被り、スマホで自殺の方法やらを眺めながら何日も過ごしていた。  ――死んでしまえば楽になれるのかな。  そう考えた時、突然私の中に激しい感情が沸き起こりはじめた。  何で私が死ななきゃならないの?  私の心と身体を弄んだ男達は、今この時も他人を踏みつけながら笑って過ごしているのだろうに。何故私はこうやって泣いて、苦しんで、死のうなんて思わなきゃいけないの?  泣いて跪いて許しを請うのはアイツらの方なのに。  きっと神様というのは悪人が大好きなんだ。でなければこんな、悪人が大手を振って町を歩ける世界を作る訳が無い。  悔しい。  怨めしい。  ――ころしてやりたい  涙で視界が歪んだその時。部屋の中で光が舞っているような気がした。  顔を上げると、光だと思ったのは蝶だった。輝く蝶が、私の部屋を舞っていた。  不思議な蝶はそのまま部屋をふわふわ飛び回った後。ベッドの上に放り投げていたスマホに停まった。すると幻の様に蝶は消え、スマホの画面が強烈な光を放ち始めた。  フラッシュライトとはまた違う――まるで夕陽を見つめたような輝きだった。  やがて発光の治まったスマホの画面に目を遣ると、高画質では無い、一昔前の写真の様な画像が表示されていた。これは――喫茶店だろうか?どこだろう――と確認しようとすると、どこからともなく声が聞こえてきた。  落ち着いた男性の声――スマホから聞こえているのでは無い。私以外誰も居ないのに。耳を押さえたけれどそれでも聞こえてくる。  ――とうとう狂ったのか。  湧き上がる恐怖に叫び出しそうになったが、男性の声は優しく静かに、何度も同じことを語りかけている事に――まるで相手を落ち着かせようとしている事に気が付いた。  少なくとも悪意のある声じゃあ無い。  そう思った私は恐れを腹の奥に捩じ込んで声に耳を傾けた――  怨む相手が居るのなら  殺したい程に  死んでしまいたい程に  赦せぬ相手が居るのなら  しるし一つだけ持ち来たれ  汝が怨みは祟りへと変じ  祟りは相手を滅ぼすだろう  怨みひとつだけ持ち来たれ  声に合わせスマホの画面が変わっている事に気が付いた。  夕陽に映える小さな喫茶店の写真。  そこから、これは――テーブルの上か。そこに紫色の花が一輪置かれている。  そう理解した途端、スマホの画面は消え、同時に男性の声も聞こえなくなった。  つまり――怨みを抱えて“この店”で目印として“紫色の花”を置け。  という事なのだろう。  そうすると――どうなる?  祟りが相手を滅ぼすだろう。つまり――この店で目印として紫の花をテーブルに置くと、怨む相手を殺せる。という事になるけれど。  あんな小洒落たカフェで?  しかも――祟りだって?  荒唐無稽な作り話、あるいは悪質な嫌がらせ――普通ならそう思うのだろう。  けれども私にはそれが、とても真実味を帯びたものに思えて仕方がなかった。  でなければさっきの不思議な出来事の説明がつかない。  いや、そう思いたいだけなのかも知れない。狂っていないと思いたいだけなのかもしれない。  でも――  復讐できる――殺せる。その言葉の響きには抗い難い。  それに藁人形に釘を打つよりは余程現代的なのだろうし、コックリさんに『殺してください』と頼むよりは信憑性が高いだろう。  それに、デマだろうと迷信だろうと、アイツに何かしてやりたい。  けれど私が死んだところでアイツへのあてつけになるとも思えないし、仮に枕元に立てたとしても『誰?』で済まされたら無駄死にだ。  不思議な声とあの画像を信じ、私は店の名前を検索してみた。ストリートビューでも確認できた。あの声を信じるくらいならストリートビューを信じない訳にはいかない。  その店は、私の住む小夜鳴市に実在していた。  静かに雨が降る中、傘を目深にさして隠れるように街を歩いた。  小さな可愛い喫茶店だった。入り口の両脇には花壇が置かれていて、菊に似た紫色の花が揺れている。これは『紫苑』の花か。これが店名の由来となっているのだろう。  店の名は――『カフェ タタリアン』  私は、花壇から紫苑の花をひとつ手折ると掌の中に隠し、静かに店の扉を開いた。  からりんとドアベルが揺れ、心地良い音が響く。  落ち着いた洋風の店内。オルゴールの優しいBGM。色とりどりのケーキが並ぶ小さめなショーケース。その脇には二人がけの可愛いテーブル席が四つ。  冗談だとしても呪いなんて似合わない雰囲気だ。  そんな店内を見回していると、従業員と思われる男性が声を掛けてきた。  白ワイシャツに黒のベスト。スラリとした長身で、世の女性が夢見る理想の男性像が具現化したような、そんな美しい顔をした人だった。 「いらっしゃいませ」  イケメンフェイスに見惚れたのか『祟り』という後ろめたい理由の所為なのか、ロクに返答も出来ず、俯きながらテーブルに着いた。だが先程の店員は嫌な顔一つせず、少し時間を置いて小さなメニュー表と水のグラスをテーブルに運んできた。  私はメニューをロクに見る事も出来ず、勢いで「これを」と指差すと、危険な程にイケメンフェイスの店員は「かしこまりました」と軽く微笑んで、爽やかに店の奥へと消えた。  そうしてようやく私が何を頼んだのかとぎこちなく指先を見てみると、頼んでいたのは『おすすめケーキと紅茶のセット』だった。 そうして――  二三度店内を見回し、誰も見ていない事を確認した私は。  テーブルの向こうの隅に。  そっと紫苑の花を置いた。  程なくして目の前に華奢なティーカップと紅色のドーム型をしたケーキが運ばれてきた。 「お待たせ致しました。こちら本日のお勧め『苺のカプレーゼ』でございます」 目の前でティーカップに紅茶が注がれ、フローラル系の香りが鼻に触れる。この香りは嫌いじゃない。ケーキだってとても美味しそう。しかも超絶美形店員が運んでくれるという特典付き。こんな気分でなければ喜んで口にしていただろう。  でも正直なところ、何を口にしたのかも良く分からなかった。  私は今、彼を呪っているんだ、という澱んだ興奮もあったのだろうけど、それよりも――  あのイケメン店員に何か言われないだろうか。変に思われないだろうかという不安もあった。 「お客様は『裏』メニューをご希望でございますね」 なんて言われて裏に案内されるのか。それとも、 「ネットの書き込みを見たんですか?あれデマですからね」 と嫌そうな顔で注意されてしまうのか。と頭の中がグルグルと回り続けていた。  結局、味なんて全く分からないまま紅茶とケーキを胃に流し込み、そそくさと会計を済ませた。  店を出るドアの前で自分の居たテーブルを振り返ったけれど――  紫苑の花はテーブルの隅に置かれたままだった。  当たり前じゃないの。花を置いただけで人を殺せるだなんて。  そんな話、ある訳が無い。  でも。それでも――  それでも、呪い殺してやりたかった。  口惜しい。怨めしい。そう思いながら扉を開け、俯きながら店を出た。  賑やかとは言えない通り。静かに降る雨。  そのはずなのに――雨は降っていなかった。舗装されている筈の足元は踏み固められた土になっている。 「えっ…?」  出口を間違えたのかと顔を上げるが、私を包む景色は様変わりしていた。  黒い板塀が何処までも続く小道。茜色の空と夜の闇が混在する夕暮れ時の空。  振り返ると、さっきまで居た店は無く、後ろにも小道が続くばかり。  十字路の真ん中に私は立っていた。 「な…何なの、これ…」  私は確かにあのカフェで紅茶とケーキを流し込み、途方に暮れながら店を出た。そのはずなのに。ドアをくぐると、そこは雪国ならぬ夕方の田舎道――とはどういう事なのか。  右を見ても左を見ても黒い板塀の不気味な路地が続いている。  何が起きたのだろう。私はどうしたらよいものかと首を傾げていると、正面の道の先になにやら白いものが揺れている事に気が付いた。  ここに立ち尽くしても始まらない。とにかく歩いてみなければ。  私は、道の先で揺れる白い何かを目指し、夕闇の薄暗い道を歩きだした。  左右の景色がどこまでも同じというのはどれだけ歩いたのかも分からなくなる錯覚に陥りやすくなるけれど、生憎道の先で揺れる目標は、確かに私の歩みに合わせて近付いている。  そしてそれは、以前にどこかで見たような気がした。  そうだ。幼い頃、父が出張土産で買ってきた――金魚ねぶた。アレにそっくりなんだ。竹ひごと和紙で作った張り子の金魚で、丸くて紅白でヒラヒラのひれがついているアレに似ていた。  だいぶ近付いて、金魚ねぶたがはっきりと見えてきた。直径は20センチくらいか。表面も滑らかで、目の高さでこちらに尾を向けてユラユラと揺れている。まるで本物の金魚のよう―― 「言っておくが、金魚ねぶたじゃないぜ。お嬢さん」  何処からか声がした。大人の男性の声だ。辺りを見回すが誰も居ない。目の前に金魚ねぶたが揺れているだけだ。というかこんな道の真ん中にぶら下がっている理由は何だろう。というか紐が見えな―― 「オイオイ、ねぶたじゃねぇって言ってるだろ。それにぶら下がってもいないぜ?」 渋い声に考えていた事を言い当てられドキリとした時、金魚ねぶたに見えていたモノが、ヒレをパタパタと動かしてこちらに顔を向けた。  どうみても金魚だ。口がパクパクと動いて、ヒレも本物。体の鱗もよく見える。  でも、目がひとつしか無い。しかも魚のそれとは違う、人間のような目。  今まで金魚ねぶたと思っていたのは、宙を泳ぐ一つ目の大きな金魚だった。 「こ…こんばんは、なのかな」 私はとりあえず挨拶をした。 「こんばんは、お嬢さん。…驚かないのかい?」 「…素直に驚いていられるほど無垢じゃないもの」 「汚れは洗えば落ちるさ。傷だっていつかは治る」 「治らない傷痕というのもあるわ」 私がそう言うと、丸々とした金魚はクルリと輪を描いて泳ぐと私に向き直って言った。 「そんなお嬢さんへの薬は、さしずめ『紫苑の花』かい?」  金魚の声に心臓が飛び上がる。 「どうして…知ってるの?」 「どうしても何も、俺がお嬢さんを案内する係だからな」 そう言うと金魚は、ついておいでと言い、先を泳ぎ始めた。  そして漸く気がついた。――この声だ。私を呼んだあの声だ。 「何故、とかどうして、とか――聞かないんですね」 一つ目金魚の後ろを歩きながら聞いてみた。 「言いたいのなら止めはしないさ。けど言いたくない事だってあるだろ?人間ってのは。それにお嬢さんだって『ここはどこ?あなたはだぁれ?』なんて聞きもしない」 おあいこだよ、と金魚は答え、 「君が頼んで、なにかが代わりに怨みを晴らす。それだけでいいのさ。ここではね」 と、後ろを振り返る事もなく言った。 「なにか?…誰かじゃなくって?」 「そう。なにか。『誰か』って言ったら殺人になるだろ?まぁ着けば分かるさ」  そしてどのくらい歩いたのか分からなくなった辺りで、金魚の泳ぎが止まった。そのままフワフワと横を向く。 「着いたぜ」 つられて横を見る。  ずっと視界に入っていた筈なのに気が付かなかったが、黒い板塀が途切れている箇所があった。そしてその奥――黒い板塀に同化する様に黒い建物があった。黒い板壁に黒い木枠の障子。黒一色の中で目を引く白い暖簾の端にはぽつりと「祟」の文字。  私が声も出せずに居ると、こちらを振り向いて一つ目金魚が言った。 「ようこそ。ここが『祟り庵』だ」
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