笑い般若

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笑い般若

 イラク北部。シンジャール地方。  現地のマイノリティ宗教「ヤジダ教」の取材に来た日本人女性ライター、佐藤シズエ。  それが本当の私。そして――彼らが奪った、私のパーソナリティ。  それはナディアという15歳の少女にインタビューしていた時の事だった。タタタンという小気味良い破裂音が村のあちこちで響きだしたかと思うと、男女の悲鳴が村全体に響き渡った。  何が起きたのか訳が分からなかった。だが乱れ逃げ回る村人達を見て只事ではないことだけは理解できた。 「ダーイッシュよ!シズエ逃げて!」 そんな私に向かってナディアは必死に『逃げろ』と言ってきた。ダーイッシュとは、別名ISILと呼ばれている組織の事だ。最近は、預言者により運営される新国家の樹立を謳いながら、イラク周辺で小さな村を襲っては時代錯誤も甚だしい宗教的価値観を押し付けて回っていると言う噂は聞いていたが。まさかこんな辺鄙な所にまで来ていようとは。  この世の終わりの様に慌てふためくナディアに向き合い、 「大丈夫。私と一緒なら大丈夫だから」 と私は、落ち着くように説明した。この時の私は全く逃げようとせず、むしろ来るなら来い、位に鼻息を荒くして待ち構えていたのだ。  この時の私は『日本は中東にも経済援助を行っているし、平和憲法のある国だから大丈夫』なんていう、お花畑全開の平和理論で自らを武装していた。周囲の反対も聞かず、むしろ『周囲が止める今だからこそ行かねばならない』という超展開思考で世界を飛び回っていた。  なのでこの時も『私が説得すれば相手も分かってくれる筈。同じ人間なんだから』などと拠り所の無い正義感に燃えていたのだ。  銃声が止み、男性の罵声が聞こえ始めた。  自動小銃を持った、目出し帽の兵士が私達を見つけ、腕を掴みあげて村の広場に連行してゆく時も『私は日本人だから大丈夫』という自信と安心に満ちていた。  数十人しか居ない小さな村の広場。そこでは年に一度、村の祭りが行われるというが、今はこの村に住むほぼ全員が、強制的に中央の広場へとめられていた。  若い女性と小さな子供達は中央に集められ、それ以外の老人や男性達は、その数メートル先に寄せ集められていた。しかし、若い男性の姿が何人か見当たらないのが気になった。  そして、目の前に集められた男性達と老人に銃が向けられ、まるで汚れに水をかけるが如く自然に、村人達に銃が放たれた。  頭、胸に銃弾を受け、血を噴いて倒れてゆく、男性達と老人。倒れたその身体にも容赦なく銃撃を浴びせる、表情の見えない男達。血を流し倒れた身体が撃たれた衝撃で何度も揺れて震えて、辺りに血を撒き散らしていた。  そんな光景を見せられた私は思わず立ち上がり、日本語で叫んでいた。 「あ、貴方達!こんな事をして何をしようって言うの?!誰が、どんな理由があろうと他人を殺して良い訳が無い!」 この人達は躊躇無く人を殺した。撃ち殺した。こんな現実があっていい訳が無い。  すると、銃を持った目出し帽の男性が一人、スタスタと私に近付いてきた。途端、急に顔に強い衝撃を受けた。耐えられず一緒に座り込んでいた女性達の中に倒れこんでしまう。  殴られた?!顔を殴られた!何故?私の言った事は間違っていないのに。 「何だ?この女」 「何を言ってんだこいつ。女のくせにどこかで教育を受けたのか?」 回りの子達に心配されながら身体を起こす私を見下して、銃を持った男達が笑っていた。屈辱と興奮の所為か、それとも殴られた所が腫れ上がったのか、顔中が熱かった。  もっと言ってやらないと分からないのか、と再び立ち上がろうとした時、私の身体に誰かが覆い被さってきた。 「待って!この人は日本人(ヤパーニ)よ!問題になるわ!」 それは先程まで私がインタビューしていた子、ナディアだった。  そうだ。私は大国、日本の人間なのだ。中東にも貢献している大事なパートナー国の人間なんだ。殴りつけた事を今すぐ謝らせてやる。  そう考えていた時だ。目出し帽の男が、私達を嘲笑うような目つきで眺めながら声を張り上げた。 「問題なんてどこにも無い。ヤパーニなど誰も見た事が無いそうだぞ?誰も“そうだ”と言わんではないか!」 そう言って男は、村に居たすべての男性と老人達が積み上げられた死体の山を指差した。 「そんな!ちょっと待って!私は日本人なの!話を聞いて!」 近くに居た目出し帽の男性に、縋るように立ち上がったが、今度は頭にに強い衝撃を受けた。  そして、途切れそうになる意識の糸を必死に手繰り寄せるなかで、ある言葉が聞こえた。 「お前らサバヤには名前も国も必要無い」 その声を聞き、意味を思い出しながら、そのまま意識が遠のいていった。  サバヤ。売買される雌。つまり――奴隷ってこと。  地面にドサリと落とされた衝撃で目が覚めた。  顔が、喉が焼けるように熱い。今すぐに水が欲しい。身体のあちこちが痛い。誰か救急車を呼んで欲しい… 「この女、自分を外国人だと言っていたようですが…」 日本語じゃない男性の声がどこかで聞こえる。そうだった。私はISILの襲撃に巻き込まれて、他の女の子達と一緒に… 「成果は?」 「は…この女を入れて10です」 「ふむ――素性が分からなくなる程度に痛めつけて、その後でしつけてやれ」 「分かりました」  そんな会話の後、私はどこか暗い屋内へと連れて行かれた。  そして、徹底的に顔面を殴られた。  その後は手枷を填められ裸に剥かれ、およそ思いつく限りの欲望の捌け口に使われた。  その後も閉じ込められたまま、少しでも抵抗する素振りを見せると徹底的に痛めつけられ、道具として扱われた。  もちろん最初の頃は私も抵抗を見せた。  ある時、『私は日本人だ、こんな事をして許されると思っているのか』と脅すように声を上げた時は、排泄物を頭から浴びせかけられ、その臭いと体中を蝿が這い回る感触に気が狂いそうになりながら、何日も放置された。  そうして私は、抵抗しようという意思と、自分として生きる意味を奪われていった。  だが意思と希望を失い従順な振舞いを見せるにつれ、水や食事を与えられたり、体を拭かれたりと、私の扱いは良くなっていった。まるで使い勝手の良い道具を手入れするかのように。  そして悟らされた。  私は私はこの男達の所有物――奴隷(モノ)であるという事。  奴隷は従順でなくてはならない。モノは所有者に逆らわない。従順でないのなら用は無い。それを肉体的、精神的に教え込まれ、欲望を一身に受け止めて生きる。そんな時間をどれ位繰り返したのだろう。そんな事を考える事すら忘れた頃だった。  私は久しぶりに外へ出された。  中東の太陽は容赦無く肌を貫き、故郷とは違うという事を焼き付けられた思いがした。  故郷…?そんなの知らない。無駄な事を考えても仕方ない。  そして連れて行かれたのは、同じ奴隷が集められた部屋。  皆一様に申し訳程度の衣服しか身に付けていない。でもそれがどうしたというのか。私に害が及ぶか、そうでないのなら関係ない。  ――そう思っていたのに。 「シズエ!無事だったの?!」 「え…?」 誰かが私の肩を掴みながら声をかけてきた。  …シズエ? 「可哀想に…酷い仕打ちを受けたんだね」 女の子は私の身体を眺め、目に涙を溜めている。 「だれの…こと?」 この女は誰の事を言っているのだろう。どうでもいいけど騒がないで!怒られるから! 「やめてっ!酷いことされるっ!許してくださいっ!」 たどたどしいけれど、どうにか伝える。だって何故か考える言葉と通じる言葉が違うのだから。違えばまた酷い事をされるから。地面に手と額をつけて、背中を丸めて許しを請う。 「思い出して!あなたは日本人でしょ!私達の事を取材に来ていたシズエ・サトウ!それがあなたでしょ!」 「にほん…じん?」 シズエ、サトウ…にほん――じん?  自分へと届けられるその言葉に、全身を電流が駆け抜けた。 「そうよ!貴方が教えてくれたんでしょ?女だからって差別される事も無くて、皆が学校に行けて!そんな国だって!」  そうよ―― 「いつか一緒に連れて行ってくれるって!」  そうだ――そうだった。 「みんなで日本に行こうって約束したじゃない!」  そうしてようやく取り戻した。私は、佐藤シズエだ。  雑巾が水を吸うように、私は“奴隷”として生きていた間に起きていた事をナディア達に教えて貰った。村が襲撃を受け、既に一ヶ月以上は経過しているらしい。  らしい、というのは、ナディア達もおよそ私と同じ様な扱いを受けていたからだ。  私は彼女達に『逃げよう』と持ちかけた。ここの男達は私達を完全に支配できていると思っている。今までは“その気”こそ起きなかったが、そう考えて思い返すと、素人でも逃げ出そうと思えば簡単に脱走できそうな適当警備なのだ。  だが、彼女達は揃えて首を振り、口々に言った。 「貴女だけ逃げて。私達はもう無理なの。もう何処にも帰れない…」 「私達は、結婚前には乙女でいる事が求められる。けれど私達はもう乙女じゃない。何人もの兵士達に無理矢理…昨日までずっとよ」 「少しでも抵抗した子は酷い拷問を受けたわ。抵抗する素振りを見せたり、目付きが反抗的ってだけでね…」 そうして受けてきた仕打ちを淡々と語る女の子達。 「非道い…」 国が、生まれが違えば全く違う話をしていたであろう彼女達。国が、生まれが、宗教が違うから、と言うだけで――こうも違っていいのだろうか。  だが私のそんな思いをナディアのひと言が一蹴した。 「ひどい?それは人間相手に使う言葉よ」 「…えっ?」 「彼らにとって私達ヤジダの女は邪教徒。人間以下の存在なの。彼らは私達をどう扱おうと罪にはならないわ。私達は兵士の餌として使われ、忠誠心への褒美として…たらい回しにされたわ。そしてこれからも…これが私達の前にある運命。私たちはもう――人間じゃないの。そして…明日には強制的に改宗させられる…貴女ならこれがどういう意味か分かるでしょ?」 それを聞いて私は慄いた。未婚のヤジダの女性にとって強制的に改宗させられ純潔を失うのがどれほど絶望的なことかは充分承知していたからだ。  排他的であるヤジダ教において、他宗教の人間との結婚は認められていない。他宗教の恋人と結婚するために改宗しようとした未婚の女性に対し、家族が石を投げて殺したという事件も過去に起きている程なのだ。ましてや婚前交渉など以ての外である。  そしてテロリスト達もそれを充分承知した上で、その恐怖を利用しているのだ。それは、彼女達のコミュニティが彼女達――純潔を失い改宗した者を“恥”として受け入れないという事。つまり、誰も助けてくれない、という事なのだ。  日本人からすれば“そんな事で”と思えるのかもしれないが、それが生活の基盤である人々からすれば、正に命に関わる問題なのである。  私は頭を抱え、唸り声を上げていた。  何故?  信じる神が違うから?理想が違うから?性別が違うから?生まれた場所が違うから?  何故そんな事でこれほどの仕打ちを受けなければならないの?  何故そんな理不尽を振りかざす相手に頭を下げて生きなければならないの?  何故私達の魂を踏み躙る相手の命令を聞かなきゃならないの?  許せない理不尽が罷り通せるのなら、私達の我侭だって貫き通したっていいはずだ。  それなら―― 「逃げよう!」 私は彼女の手を取り、部屋に居る他の女の子たちにも聞こえるように言った。 「逃げるって…何処へ?村に帰っても家族に殺されるわ。それなら…」 俯いていた彼女達の瞳に一瞬だけ希望の光が灯ったが、それもすぐに消え、視線は再び地を這っていた。コミュニティに戻れない絶望感から自暴自棄になっている女の子ばかり――アイツらの思惑通りなのだ。だったら―― 「関係ないよ!だったら日本に逃げればいい!」 ――だったら私のワガママだって通してやる。 「ニホン…あなたの国に?」 「日本という国はどんな宗教でも受け入れられる寛大な国よ。区別する事はあっても差別される事は無いわ」 「でも…」 思っても居なかった提案に逡巡する女の子達。私はナディアの手を両手で強く握り言った。 「ナディア、生きてこそなのよ」 彼女の名前を呼んだ事で、ゆっくりとだがナディアの眼に力が戻ってきた。  そして私達は警備の隙を突いて逃げ出すことに成功した。途中、巡視の一人に発見されてしまったが、交渉により見逃してもらう事に成功した。  さらに運の良い事に、移動中のアメリカ軍兵士に発見、保護され、現地の日本大使館を通じ、無事日本に渡る事が出来たのだ。  私がISILに捕らえられたという情報は現地大使館でも掴んでいなかったらしく、大層心配されると共に、こっぴどい説教を受けた。  けれど、その説教が心地良く、私は涙を流しながら日本語による大使館員の説教を聴き続けていた。そんなドタバタはあったけれど、そうして私達は日本に渡る事が出来た。  けれど――  魂に摺りこまれた恐怖――それは呪いだ。  一見何事も無いように見えても、何かしらのタイミングで鎌首をもたげ、その顎で魂を噛み砕く。  私の呪いが発動したのは、日本に戻った空港での事だった。  大きな荷物を持った男性が私にぶつかり――私を睨んだ。  ただそれだけの事。なのに――  その視線に背筋がぞわりとした、その瞬間の事だった。  あの国で私が受けた仕打ち。肉を傷つけ魂を汚されるような暴虐の記憶が、癒えた傷口から噴き出すようにして私の全身を苛んだ。  私は全てを投げ出して床に伏せ涙を流し、頭を擦りつけながら“現地語”でひたすらに許しを請うていた。  そして気が付いた時は空港の医務室だった。  私はあの状態で失禁しながら気を失ったらしい。  らしい、というのはナディアがそう教えてくれたからだ。ぶつかった男性は私の行動を見て、逃げるように慌てて去って行ったという。  医務室には一緒に日本へと渡った、あの村の女の子達がいた。大使館が用意してくれた服を着て、その様子だけを見れば外国人女子高生の団体旅行客にしか見えない。その娘達も心配そうに私を見ていた。けどそれは私への心配ではなく、いつ自分があぁなってしまうか、という恐怖からだ。その目が雄弁に物語っていた。  『私はいつあぁなってしまうんだろう…』  『国が変わっても奴隷からは抜け出せない…』  『こんな事なら死んでしまったほうが楽だったんじゃ…』  否定したかった。言い返してやりたかった。  けれど、私はその眼差しが含む問いかけに対する答えを持っていない。  呪いが存在するという事を立証してしまった私に、言える事など何も無い。 「うわああああああああっ!」 私は頭を抱え、髪を振り乱して、叫んだ。 「どうしたの、シズエ?」 ナディアが私の背をさすり、心配そうに顔を覗きこんでくる。 「――悔しいの」 「シズエ…?」 「自分達の思想を他人に強要し、上から見下ろすことでしか自分を評価できない男達。そんな奴らが宗教思想を都合よく捻じ曲げ、私達の魂を弄んだ輩がまだ大手を振って誰かを傷付けている…それが悔しいの!」 私の声に女の子達が注目し――そして瞳を曇らせていった。 「私達だって悔しいよ…もう生まれた村には帰れない。あいつ等は私達からささやかな生活とちっぽけな夢を根こそぎ奪ったのよ!」 仲間内ではいつも明るく強気に振舞っていたサリマが、私に続いて声を上げた。 「私達が一体何をしたっていうの?普通に暮らしていただけよ!信仰だって選べたわけじゃないのに!じゃあ生まれてきただけで不幸が決まってたって言うの?」 サリマに続き、タリハ、リマ…続々と胸の内に詰め込んでいた想いを吐き出しはじめた。  誰が聞くわけでもない。誰が慰めるわけでもない。ただ――怨みを溢れさせてゆくだけ。 「私は愚かだった…日本人という人種は戦争に巻き込まれないと思っていた。けど実際はそうじゃない。主義主張に関わらず、理不尽な暴力と言うのは正しく平等に降り注ぐ!人種、性別、思想…個人の全てを否定して、奴隷という呪いをかけられた私の――」 気が付くと、ナディアが私を抱き締めていた。だがそれは抱き締めるというよりも、自分がどこかに行ってしまわない様にしがみ付いている、という風に見えた私は、ナディアを強く抱き締め返していた。そして、胸の内から湧き上がる――ひとつの感情を言葉にして、大声で叫んでいた。 「「私達の怨みはどうしたらいいっていうの!!」」 あの村に居た娘、そして私が、声を揃え――力の限り叫んでいた。  その時――光る蝶が見えたような気がした。  最初は大声で叫びすぎて酸欠になってチカチカしたものが見えているのだと思った。  けどそれはホワイトボードに集まり、文字の様なものを形成し始めていた。しかも―― 「シズエ…見える?ここはあなたの国よね?何故私達の言葉が…?」 ナディア達が驚きと恐れの表情を浮かべて私を見つめている。この言葉は彼女達にも読めているという事なの? 「怖い!穢れた私達に神が罰をあたえようとしているわ!」 最年少のタリファが涙を流しながら首を激しく振っている。 「違う…これは神様の御業なんかじゃないわ」 私はタリファの肩を優しく抱いて静かに言い聞かせた。  一体なにが。いや、そんな事よりも。この文章は――?  怨む相手が居るのなら  殺したい程に  死んでしまいたい程に  赦せぬ相手が居るのなら  しるし一つだけ持ち来たれ  汝が怨みは祟りへと変じ  祟りは相手を滅ぼすだろう  怨みひとつだけ持ち来たれ  やはりこれは神の御業なんかじゃない。明らかに人の、人間の技だ。  しかし、どうやって?何故ここにいる全員が見えているの?  何故私達の無念を――怨みを知っているの?  いや、知っているからこそ見せた、という事なの?  私達にかけられた呪いを解くには呪いを『祟り』に変換する儀式が必用ということなのか。  「これはなに?!」 訳が分からない、といった様子のナディアが私に聞いてきた。 「――祟りよ」 「タタリ?」 「無念の怨みが引き起こす裁き。私達に与えられた――復讐の機会よ」
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