火前坊(かぜんぼう)

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「ケーキは3つ食べるけど、それと別に持ち帰りでチョコを5…いや8つお願い。あー、もう働きたくないでゴザル…ゴリラ課に戻りたくないぃ…」  お露さんがケーキとは別にチョコの持ち帰りを頼む時は、大抵が残業の時だ。雄ゴリラの群れに戻る前に愚痴りたいのだろうと判断した相志さんのはからいで「もう少しで閉めるので、お相手してあげて下さい」と、私は愚痴聞き役として向かいの席に座っていた。 「まだお仕事なんですか?」 「そうなの…龍善寺って知ってる?そこの火事で死体が出たらしくてさぁ…1課に声がかかるって事は他殺の疑いがあるって事なんだろうけど」 「ご苦労様です…」 愚痴を聞くのは良いのだけれど、警察の仕事について部外者に漏らしちゃうのはどうかと思うんです。というか、こんな所で油を売って居る暇が有るのだろうか。 「それにね、現場で保護したっていう娘さんがどっか行ったらしくて見当たらないの。だから…」 そこまで言い終えたところに、相志さんが苺のカプレーゼとフレジエ、苺ショートの3つと紅茶をお露さんの前に運んでくれた。ついでに私の前にも紅茶の注がれたカップを置き、ニコリと笑い去ってゆくイケメン。 「長丁場になりそうなのよねぇ…」 そんな愚痴などお構い無しと言った様子で、一緒にテーブルの上で仲良くじゃれ合って遊んでいる付喪神のクロちゃんと私の式神であるサン。その微笑ましい様子を見ながら頬杖を付いて溜息を吐くお露さん。こっちも長丁場になりそうかな。  そんな、閉店間際の事でした。  『タタリアン』の扉が開き、控えめな印象の女の子が一人、店を訪れました。  息を切らせながら店内を見回すその娘は私服姿だけど、顔つきの幼さは現役の女子高生に見える。しかしその顔や手は、まるで煤でも浴びたかのように薄汚れていた。  テーブルの上で遊んでいたクロちゃんは、ドアベルが鳴るのとほぼ同時にお露さんの膝の上に避難した。が、式神であるサンは常人の眼には見えないので身を隠す必要がない。筈なのにクロちゃんと一緒になってお露さんの膝へ身を隠し、二匹で笑いあっていた。  なんか自信無くすなぁ…と思いながら立ち上がって応対しようとする私を相志さんが止めました。 「若葉さんはそのままでどうぞ」 ここで私が出たらお露さんもゆっくり出来ない、と判断しての事なのだろう、と甘えさせて頂くことにした。 「こんな時間にお客さんって珍しいね…」 座ったままで軽く伸びをしてお客さんに目を遣るお露さん。 「普段は妖怪ケーキ漁りくらいですからね、この時間に来店されるのって」 「余ったケーキを平らげて売り上げに貢献して帰る、美人でセクシーな妖怪ね」 まぁ、美人でセクシーというのは否定しませんけど。  その子は店内を軽く見回した後、私達から2つ離れた一番奥のテーブル席に腰を下ろし、相志さんに向けて軽く会釈した。それを受けた相志さんが軽やかに応対し、注文を受ける。そんな相志さんを見ていると、視線を感じたのか目が合った。今では免疫も出来て、目が合ったくらいではこのイケメン顔にも動じなくなった――のですが…まさか表情を変えずにウインクを飛ばしてくるとは想定外でした。一瞬だけ宝塚かベルばらかと錯覚させる、花が飛び散る幻視が…  いや、分かってたんですよ?相志さんは『怨み花』が出たよ、と伝えてくれようとしただけだって事は。でもね…キャッチボールのボールを受け取るつもりが、ミサイルが飛んできたくらいの想定外の破壊力。くそっ、これだからイケメンは。  幻覚を振り払い女の子のテーブルを覗いてみると、ひっそりとテーブルの隅に薄紫色の菊の花が置かれている。サンに念で『怨みの記憶』を確認するよう頼むと「はーいっ!」と元気に返事をして女の子のテーブルにサンが飛び移っていった。  仕事の雰囲気を感じたのだろう、クロちゃんは何も言わずにトコトコ歩いて店の奥へと戻って行った。  すると、その様子を見ていたお露さんが食べかけのケーキをそのままにして立ち上がった。何事かとそのまま見ていると、そのまま女の子が座るテーブルに向かって歩いていき、女の子に優しく声をかけていた。 「ごめんなさい、ちょっといい?」 お露さんのお仕事モード『刑事 小鳥遊露草』だ。女の子は俯いたままで肩をビクリと震わせていた。 「あなた…木村瑞雲さんよね?」 女の子がオズオズと顔を上げる。 「小夜鳴警察の小鳥遊と言います。火事の現場から娘さんが姿を消した…って捜索するように通達が出ているの。悪いようにはしないから、お話、聞かせてくれない?」 小鳥遊刑事がそう言うと、女の子は俯いてしまった。というか限られた情報から個人を特定できちゃうって凄い。さすがは刑事さんなんだなと感心してしまう。  声をかけられた女の子は、ほんの少しだけ不安そうな顔を見せていたが、 「もう少し…もう少しだけ、お時間を頂けませんか?私、どうしてもこの店で――」 決意に満ちた、奥の方に炎を宿すような目で小鳥遊刑事を見上げていた。 「しなきゃならない事があるんです」 黙ってその顔を見つめる小鳥遊刑事。 「そ、分かった。なら私もケーキお代わりして待ってるから。その用事が済んだら声を掛けてくれる?」 小さく溜息を吐いてあっさりと引き下がる小鳥遊刑事。というかまだ食べるんだ。 「あ…ありがとう…ございます」 予想外だったのか、拍子抜けしたように礼を述べる女の子。 「ここの紅茶、美味しいのよ」 戸惑う女の子を尻目に、小鳥遊刑事は自分の席に戻ってケーキの残りを食べ始めていた。当店の紅茶をお褒め頂き、誠にありがとうございます。  その間に『怨みの記憶』を確認し終えていた私は店の奥に戻ると、手招きしてお露さんを呼んだ。それを見たお露さんが普通にスタスタと店の奥に入ってくる。すっかり常連客の振る舞いですね。 「あの子の『怨み』の件だね?」 お露さんが刑事の顔で尋ねてくる。私は静かに頷いた。 「はい。さっきお露さんが言ってたお寺の火事ですけど、これ事故じゃないです。放火です。女の子のご両親が生きたままお寺の本堂で火を点けられています」 それを聞いた相志さんが紅茶に『夕鈴見の粉』を溶き始めた。クロちゃんは2階へと上がってゆく。紫苑さんを起こしに向かったのだろう。 「酷いね…放火の犯人は分かる?」 「それが…制服のお巡りさんなんです」 「また身内の犯行?うちの会社どうなってんのよ全く…」 左手は腰に当て、右手で頭をワシワシと掻いている小鳥遊さん。 「そのお巡りさん、あの女の子をずっとストーキングしていたようで、ご両親が通報した電話を受けたことで仕事のフリをして盗聴器を仕掛けたり、精液の付いた手紙を出したり」 「ストーキングのマッチポンプで火を点けるとかクソ野郎だね。というか結構サラっと精液とか言われるとお姉さんビックリしちゃうな」 「この手は慣れていますから」 その言葉に少しだけ驚いた顔を見せるお露さん。 「それで住職…彼女の父親に見つかり…注意を受けていたんですが逆上して…鐘みたいなので殴って倒れたところに…その…灯油を…それでも犯人を止めたくて…酷い…」 それでもこういう暴力シーンは苦手だ。思わず顔を顰めていると、お露さんが優しく肩を叩いた。 「もういいよ。その手は私の方が慣れているから、無理しないの。それに火事が起きたのは1時間前くらい。つまりあの子は両親を焼き殺されたばかりって事よ…壊れそうな程に辛いだろうに。それでもここまでたどり着けた…頼むね、若葉ちゃん」 と話すお露さんを見て、私は笑ったつもりだったのですが、お露さんには、 「…どうした?若葉ちゃん。泣きだしそうな笑顔して」 と聞かれてしまいました。なので素直に答えました。 「私の時にはこんな人、周りには居ませんでしたから」 お露さんはこれでも優秀な刑事さんだ。当然、過去に私の身に起きた件も把握している。一瞬だけ『しまった』という顔を見せたが、そんな顔を見せる事も宜しくないと判断したのだろう、努めて普通に振舞うお露さん。 「いえ、別にそんなつもりで言ったんじゃないですから」 そのとき私は、お露さんに笑ってそう答えたが、でも、これだけは気になった。  この店で働くと決めた時、私は――壊れていたのだろうか。  そして今も――壊れたままなのだろうか。  壊れたままでも問題なく動作するのなら、それは壊れていると言えるのだろうか。  「店の外でお待ちになっている方が居る」と告げてお客様に会計を促し、店を出て『夕闇の境』に入ってゆく後ろ姿を見送って『CLOSED』の札を下げる。お露さんに留守番を頼むと、私は薄緑の狩衣に着替え、店の2階にあがった。  純和風な造りの2階部分。ここに一枚だけある、真っ黒な障子。ここは『夕闇の境』にある、怨みを聞き届ける場所『祟り庵』へと通じているのだ。  静かに、丁寧に障子を開け、薄暗く、広い畳の部屋に入る。  障子を開けてすぐの所に相志さんが正座している。  そしてその奥には、薄紫色の狩衣を纏い、蝋燭の灯りにぼんやりと照らされる紫苑さんが居た。 「二人分の記憶に驚いたのではありませんか?」 私が腰を下ろすと紫苑さんが聞いてきた。  小鳥遊刑事がお仕事をしている間に、サンは『怨みの記憶』を確認し終えていた。しかし、何故かサンに見えた『怨みの記憶』は2人分あったのだ。  一つは、彼女自身の『怨みの記憶』。ストーカーにより友達が傷付けられ、暮らしが脅かされ、そして両親まで――というものだ。  そしてもう一つの『怨みの記憶』は、彼女の父親の記憶だった。とても短い、けれどもとても鮮明で強烈な怨みだった。  娘へのストーカー行為を止める様に諭すが、逆上した相手に暴力を振るわれ、夫婦ともに灯油をかけられそのまま火を点けられている。  全身を焼かれ目も見えず耳も聞こえない父親だったが、娘を守りたいという一念のみで犯人を本堂の外まで追い、そこで力尽きていた。  そして2人の記憶から導き出された犯人は――ストーカー被害の相談を受けていた交番の巡査だった。 「はい…驚きました」 「たまにあるんです。亡くなった人の一部を、その親族が身体に取り込む行為というのは」 「えっ…?!」 ちょっと理解が追い付かない。想像ができない。親族とはいえ、人を――食べるの? 「なにもゾンビ映画の様に、身体に齧りつく訳ではありませんからね?」 というか紫苑さんの口からゾンビ映画という言葉が出る事が新鮮だ。 「親しい者を急に失った人が喪失感に押し潰されないために、どんな行動を取ると思いますか?」 もしかして―― 「えぇ。その人の一部を、身の内に取り込むのです。いつも一緒に居ると感じる為に。そして忘れないために。火葬後の骨や、血液。簡単に口に含めるものは幾らでも存在します。野蛮と思われるかもしれませんが、これは宗教というものが完成する以前から行われてきた、人が大切な人との死別に区切りを付ける為の儀式と言っても過言ではないのです」 そこまで言い切ると隠れるように声のトーンを落とし、呟くように言った。 「実際他言しないだけで、実行している方は、多いと思いますよ」 すると紫苑さんはまた普通の声色に戻り、 「そして、こうした場合の『祟り』は強力になる場合が多いのです。覚えておいて損は無いでしょう」 と、締め括った。  その時、丁度『祟り庵』の戸がぞろぞろと開く音がした。案内役のサンと女の子が到着したようだ。 「お客様をお連れ致しました」 今ではすっかり言い慣れたサン。引っかかる事も無く言えている。 「ストーカーに両親を殺され、自らをも犠牲にしても仇を討とうと怒りに燃える魂の持ち主よ。我々、闇の陰陽師が、貴方のその怨み――祟りと成しましょう」 こうして“あなたに起きた事は全て知っているよ”と伝える。それだけで依頼人は救われるのだ。  実際、終始無言のままで『祟り庵』を後にする依頼人もいるし――この子のように声に出す事で、自分に残る辛さを減らそうとする人も居る。 「そちらにいらっしゃるのが『祟り』をして下さる方なのですね?」 依頼人から障子に映る紫苑さんの影は、かなりの高さに座すように見えている。それを見上げながら、静かに――けれど力強い口調で語り始める依頼人の女の子。 「陰陽師さんの仰るとおり私は…ストーカーに両親を殺されました。パパとママは私を守ろうと警察にも相談して、色々と頑張ってくれたんですが…そのストーカーは、その相談していたお巡りさん本人だったんです!」 悲鳴の様に叫び、床に崩れ落ちる依頼人。それでも悲しみの重圧に潰されまいと両手で上体を起き上がらせながら、辛さに涙を流しながら、叫んだ。 「勝手に自分のモノになったと思い込まれ、勝手に妄想を膨らませて、それで否定されると我を失って…焼き殺して…あいつが身勝手で両親を殺したというのなら!私だって身勝手であいつを殺していいはずです!あいつだけはっ!私の意思で殺さなければ意味が無いんですっ!あの、人間の皮を被った怪物は!お願いしますっ!望むなら家も土地も、残りの私の一生を捧げても構いませんっ!」 そして、床に力いっぱい拳を打ち付ける、依頼人の女の子。 「あの男に…祟りを…」  そんな女の子の元へ、前足で形代を持った付喪神のクロちゃんが2本足で歩いて近付いていった。俯き涙を流す依頼人の頭をぽふぽふと叩いた。 「お顔をあげるのにゃ」 すぐそばで聞こえる声に顔を上げる依頼人の女の子。 「猫…のお人形?…えっ?お話してる…」 顔を上げた女の子へ丁寧に頭を下げるクロちゃん。女の子も釣られてお辞儀をする。 「この形代に、血をいただきますのにゃ。ゆびを出すにゃ」 そう言われ、静かに右手をクロちゃんへと出す女の子。  その差し出された指にかぷりと優しく牙を立て、浮き上がる血の玉に形代を押し当て――ぺこりと頭を下げて部屋の隅の暗がりへと消えるクロちゃん。  そして―― 「貴方の身体に流れるその怨み――ここに頂きました。この形代が貴女の血と怨みを受け継ぎ、祟りとなるのです」 紫苑さんの言葉が部屋に響く。  そしていつもはとんとんと柔らかいものが廊下を跳ねる、クロちゃんの足音なのですが、今日は何故かドドドドと勢いが激しい。そして、 「紫苑!びっくりにゃ!かたしろが真っ赤になったのにゃ!」 付喪神のクロちゃんが血相を変えて我々の居る部屋に飛び込んできた。手にする形代は血で浸したかのように真っ赤に染まっている。  紫苑さんはほんの少しだけ顔を背後へと向け、 「大丈夫ですよ、クロ。これで良いのです」 とだけ、いつもの落ち着いた様子で言った。 「ならいいのにゃ。でも驚いたのにゃー。クロまちがえたのかと思ったにゃー」 そう言って血の色に染まった形代を握りながら紫苑さんの膝の上にごろりと転がって甘えだすクロちゃん。そんなクロちゃんの頭を撫でながら、決めの一言を告げる紫苑さんでした。 「それではこの祟り――存分に味わって頂くとしましょう」  うん。美女と黒猫。ミステリアスな組み合わせ。  そして依頼人の女の子は『夕闇の境』を後にした。今頃は、小鳥遊刑事に付き添われて事件の詳細を聞かれているのだろう。  そこから先は――私達の仕事だ。 「では参りましょう。『鬼哭の辻』へ」  濃紺に塗り潰されゆく空と、それに抗い続ける茜色の空と雲。けれどこの世界ではどちらかに染まる事は無い。どちらが東でどちらが西か。入るたびに茜に染まる空の向きは違うから。  だから暮れる空の向きはあてにならない。周りの景色や雰囲気で判断する他無い。  そうして歩きながら背の高い草の生えた荒地を通り抜け、首の欠けた地蔵を通り過ぎた先にあるのが――『鬼哭の辻』だ。 「紫苑様、今日は何をお使いに?」 パティシエ姿の相志さんが、大きな鞄を手に紫苑さんへ声を掛けた。 「えぇ。『今昔百鬼拾遺 中之巻 霧』を」 紫苑さんの言葉に頷き、相志さんが十字路の中央へ輪を描くように蝋燭を六本立てる。その中央へ古書『今昔百鬼拾遺』をそっと置き、その上に真紅に染まった形代を乗せた。  尻尾の先に丸く狐火を灯したサンが一本ずつ丁寧に蝋燭に火を灯してゆく。  相志さんが脇に提げた鞄から『骨鈴』と呼ばれた神具を恭しく紫苑の手に乗せる。  紫苑さんが左手に骨鈴を持ち、辻の真ん中に並べられた蝋燭の輪に近付く。  左手の骨鈴を軽く振ると、骨同士のぶつかり合うカラカラという寂しげな音が周囲に響いた。 「双盃の左 塵玉の右 天を地と成す 逆撫の社」 唱えながら、左足の草履をたんたんと踏み鳴らす紫苑さん。  右手を胸の前で握り、人差し指と中指を立て、印を結ぶ。 「黄幡の御座は地に伏して 歳破の兵主は我が前に集う」 その言葉に応じるように、四辻の草むらから草履を履いた黒い足首――凶事の塊である辻神が現れた。ざりざりと地面を歩き、地面に立てられた蝋燭の前にそれぞれ足を揃え、紫苑さんの合図を待ちわびている。  そして、紫苑さんが呪文を唱える。  逢魔が時より出るモノ  誰そ彼に横たわる形無き理の貌かおよ来たれ  絵姿に寄りてここに現れよ  怨みを糧に踊り出で怪異きを為せ  『今昔百鬼拾遺 中之巻 霧』の頁がパラパラとめくれ、ピタリと止まった。  地蔵と灯篭が見える。それなりに往来のある道の脇なのだろう。  炎を身に纏う禿頭の男が一人。高価そうな杖と傘を脇に、片手には数珠を持ち、衆生を救う地蔵に背を向けて、地を這い往来を睨んでいる。  きっと――僧侶だったのだろう。  狂おしい信心の成せる業なのか、命を賭して功名を得ようとしたのか。その昔、自らの身体に火を放ち即身仏となる事を目指した僧が居たという。  だが、炎に身を焦がし苦悶の面つらで這い出る姿には、僧と呼べる面影は微塵も残っていない。  どのみち、仏門にありながら生命を軽んじる時点で碌な者ではなかったであろう。  ――そんな絵が、描かれている。  紫苑さんが狩衣の胸元に右手を差し込んだ。抜き出された指の間には全てを朱に染めた形代がある。 「怪威招来――火前坊!」 その言葉と共に、紫苑さんが円の中に形代を飛ばし入れた。  すると、呼応するように黒い足首、『辻神』達も囲いの中へ我先にと足を踏み入れてゆく。  途端、辻神達が血の付いた形代へと渦を巻いて吸い込まれていった。そして全ての辻神が吸い込まれた途端、円を作るように置いていた蝋燭の火が火柱となって吹き上がった。そしてそれは渦を巻き、巨大な焔の竜巻と化した。  炎熱と轟音が掻き消え、煙と土埃が残された『鬼哭の辻』に何かが立っていた。  いや誰か、と言うべきか。  全身が焼け焦げ、身体の表面が全て真っ黒でひび割れ炭となった人が、そこに立っていた。  唇も、瞼も目玉も肉も脂も焼け落ち溶けて、まるで黒い骸骨のように見える。  だがその身体はいまだに煙を上げ続けており、炭となった身体の奥ではまだ静かに炎が燃え続けているのが想像できる。  火のくすぶる焼死体のような妖怪『火前坊』を見つめていると、相志さんがいつもの解説を始めてくれた。 「火前坊は残火――無念の炎を燃やす妖怪です」 「無念を…燃やす?」 「かつて鳥部山という所では、僧侶が自らの身体に火を放つパフォーマンスが頻繁に行われていました」 「パフォーマンスって…けどお坊さんなんですよね?何かしらあった訳じゃないんですか?例えば権力者を諌める為に、とか…」 けれどそんな私の問いに、相志さんは静かに首を振った。 「文字通り、命を賭けたパフォーマンスですよ。綺麗に死ねたら勝ち。死に損なったり見苦しく死んだら負け。そのギャンブルで得るものは――死後の地位と名声です。見物人や屋台まで出たりしたそうですよ」 「どうしてそんな…割に合わない事を」 私がそう溢すと、溢えた言葉を拾うように相志さんが言葉を続けた。 「する僧が多かったのですよ。どんな乞食坊主でも、成功すれば一発逆転で高徳のお坊サマですからね。生きながら地獄を味わうよりは」 死して涅槃へと旅立つ事を選んだのでしょう。と。相志さんの解説は続いた。 「ですが、身に炎を纏ったところでようやく気がつく。悟るのですよ。何と愚かな事をしたのだろう、と。何故こうなってしまったのか。本当にこうするしかなかったのか、と」 それは間違った選択。いや、それを選ばざるを得なかった世間への悲しみと、後悔と――無念か。 「悲しみと後悔と無念の思いが身の内を焼き続け、いつしか無念の火種そのものとなった妖怪。それが火前坊なのです」  その時、火前坊の両腕がゆっくりと上がった。関節が動くたびに炭化した皮膚がボロボロと剥がれ落ち、その内側で真っ赤に燃えた炭の様な身体が現れた。その瞬間、まるで炎が目の前に立ち昇っているかのように強烈な熱が伝わってくる。  これが――身を焦がし続ける無念の火種。  ほんの少し、赤々と燃える中身が見えただけなのに、遠巻きに見ている私の所にまでもの凄い熱さが伝わってくる。まるでストーブの前に立っているかのようだ。 「あったかいのは好きだけど、これは熱過ぎにゃ…おヒゲがチリチリになるにゃ…」 胸に抱いているクロちゃんが私の腕の中から背中へと避難した。  火前坊は私達に向かって静かに合掌し頭を下げると、踵を返しゆっくりと歩き出した。  体が動くたびに、火前坊の炭化した皮膚が剥がれ落ちてゆく。その度に、己の身を焦がす熱量は増し続けてゆく。どれだけ火前坊が遠くに歩き去ろうと、その無念の熱はいつまでも私達の頬を焼き続けていた。  娘を守るために歩き去る無念の祟りを見送りながら、紫苑さんが静かに呟いた。 「祟り――ここに成されたり」
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