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『龍善寺における放火及び住職夫妻殺害事件についての報告書』
俺は書きかけの報告書をヒステリックに破り捨てた。
もう何枚目になるだろう。
誰もこんな報告書を信じてくれる訳が無い。そもそもこの眼で全て見ていた俺が、未だに信じられないというのに。
近所の寺から煙が上がっている、という通報を受けて消防が到着。
到着した時点で、敷地内には粘原 由着夫巡査が到着しており、消防車を誘導。状況を説明するも、意味不明な言動を繰り返す。境内には死後に動かされたと思われる焼死体があり、消防の判断で警察、捜査一課が出る事になる。
鎮火の傾向にあり、また出火した本堂の中から、死後に焼かれたと判別できる死体が発見され、一刻も早い実況検分が望まれる状況であった。
ここで筆は止まっている。書ける訳がない。
何故ならその時――
境内に倒れていた死体が立ち上がり、念仏を唱え出したのだから。
俺の見間違いだったら。俺にだけ見えた幽霊だったのならまだ良かったのだ。本当の事を書けばそれで済む。だがその場に居た消防隊員、警察官全員が同じ光景を目撃しているとなると、現実を疑わねばならなくなる。
大きな溜息を吐き、すでに温くなり埃の浮いたコーヒーを流し込むと、俺は報告書を諦めて外の喫煙所に出た。
すっかり冬模様の小夜鳴市だが、今夜は幾分温かい。夜空がほんのり白い。雪でも降るのだろうか。
煙草に火を点け、空に昇る紫煙と白い吐息を仰ぎ見る。
あの死体は確かに死んでいた。全身が炭になるまで焼け焦げ、眼球も溶け落ちていた。
だが動いた。
立ち上がり、自らの罪を自白し続ける粘原巡査へと、その体を崩れ落としながらも向かって行ったのだ。
そして粘原巡査に抱きつくと――大きな火柱となって燃え上がった。巡査諸共だ。
辺りには、その死体があげる念仏の声ばかりがどうどうと響いていた。
粘原巡査の悲鳴も贖罪もかき消さんばかりの堂々とした念仏だった。
そして火柱が静まると――そこには。
真っ黒な墨になった粘原巡査と。
骨だけの姿となって尚その死体にしがみ付きながら、念仏を上げる白骨が残っていた。
そして。
――南無阿弥陀仏。
最後に朗々と唱え上げ、しがみ付く白骨は崩れ落ちたのだ。
2人の死体を検める検視官はこの状況を見て頭を抱え、我々の状況説明を聞くと考えるのを停めたようだった。
その後、粘原巡査の部屋を調べると、被害者夫婦の娘を盗み撮りしたと思われる無数の写真に盗聴、盗撮機器とそのデータが発見、回収された。状況と本人の証言、物的証拠から粘原の犯行、で間違いない――のだけれど。
誰がこんな報告書を信じるって言うんだ。
やってられるか。
俺は自棄になりながら煙草を吸殻入れに押し付けた。
事件の流れとしては、粘原が寺の娘をストーキング。動機は不明だが逆恨みか何かで娘の両親を殺害後、建物に放火、という流れなのだろうけれど――いっそ、粘原は精神が錯乱し、自ら火の中に飛び込んだ…とでもしてしまおうか。そう思っていたその時だ。
「お疲れ様!」
刺々しい気持ちに柔らかく響く女性の声がして振り向くと、同じ一課の唯一の女性、小鳥遊刑事がそこに居た。顔を向けて曖昧に返事を返すと缶コーヒーが放り投げられてきた。片手で受け取るとまだ温かかい。こいつは結構気が利くしすこぶる美人なのだが、我々の様な奴等と過ごす時間が長すぎたのだろう、振舞いや口調、普段の細かな仕草に“女”を感じられない。と、署内で口説こうという男は皆無だったりする。同僚との結婚というのは向こうもお呼びじゃないのだろうが。
「お前はいいよな、現場に来る途中でお寺の娘を保護してたんだろ?」
「へへぇ、日頃の行いって奴じゃない?それにしても現場…酷かったみたいね」
もう話は広まっているという事か。それにしては随分と早い。
「あぁ…夢だと思いたいよホント」
「祟りが終わるまで全部見たの?」
「たたり?」
「あっいや死体が動くなんて、まるで祟りみたいだねって話!」
「お寺に放火して坊さん殺してんだからな。祟りどころじゃ済まねぇだろ。仏罰だ仏罰」
「…何、意外と信心深いワケ?」
「そういう訳じゃねぇさ。でも…あんなもん見ちまうとなぁ…報告書にどう書いてよいものかねぇ…ってさ」
俺がそう愚痴ると小鳥遊刑事は皮肉そうな笑みを浮かべながら言った。
「私の時はねぇ、そういうの全部差っ引いて書いちゃったよ。どうせまともに書いたら『少し休め』か『病院行け』って言われるよ?」
そういえば小鳥遊刑事は『肉と骨が綺麗に分けられた死体と、衣装ケース内で窒息した死体』の事件を担当していたのだった。成程この手の報告書は経験済みという訳か。
「それもそうだな…うし、そうすっか」
そう言って大きく伸びをすると、小鳥遊刑事はそんな俺を見て小さく笑った後、
「後さぁ、帰ったら風呂入ってスーツ洗濯に出しな?煤と人の脂の匂いでヤバいよ」
「…マジか」
小鳥遊刑事はそれだけ言うと、さっさと帰ってしまった。ってか“人の脂”とか分かっていても言うなっての。
――俺も報告書、適当に書いて帰ろ。
『火前坊』の祟りから数日が過ぎたある日。次第に夜の色に染まってゆく窓の外をのんびり眺めていると、足元からぬいぐるみの付喪神、クロちゃんの声がした。
「若葉ー、紫苑が呼んでるにゃー『着替えておいで』だってにゃ」
金色と青のくりくりした瞳が私を向いている。紫苑さんのお手伝いで伝令に来たってところかな。
「ありがとね、クロちゃん」
「クロはエラいかにゃ?」
私が礼を述べるとクロちゃんは、後ろ足で立って前足で私の足をもみもみしてきた。甘えたいのかなと思い、抱き上げて顔の傍まで連れてくる。
「うん。偉いねクロちゃんは。ありがとね」
さらに頭をグリグリ撫でてやると眼を細めて幸せそうな顔を見せるクロちゃん。満足したのかテーブルの上にひょいと飛び乗り、丁度そこでバナナにかぶりついていたサンに声をかけた。
「サンはクロと一緒に遊ぶのにゃ!」
「うんっ!遊ぼ遊ぼっ!」
そう言って、店の裏口にある猫用の扉から連れ立って『夕闇の境』へと遊びに行く2匹。
「すいません、紫苑さんに呼ばれたので、少しお願いします」
相志さんに声をかけ2階へと向かう。しかし『着替えておいで』という事は――『祟り庵』で待っているという事だろう。
『タタリアン』の2階にある、真っ黒な障子。その先は『夕闇の境』にある『祟り庵』へと繋がっている。狩衣姿で静かに障子を開けると、薄紫の狩衣姿でこちらに向かい座っている紫苑さんがそこに居た。
「お待ちしておりました。若葉さん」
その佇まいだけでご飯3杯はイケそうな程に美しい。
「今日は葛葉の陰陽師として――そして師匠として、若葉さんに伝えなければならない事があります」
そう言って立ち上がり歩き出す紫苑さん。私も黙って後を追い『夕闇の境』へと足を踏み入れた。
『祟り庵』を出るといつもの黒い板塀の道ではなく、虫の声も鳥の囀りも聞こえない、夕暮れの暗い森の小道に出た。
前を歩く紫苑さんは、暗い森の中にあってまるで淡く光っているかのように美しい。
私達の歩む音と息遣い、時折吹き抜ける風が枝葉を揺らす音だけがこだまする、真っ暗な森を抜けると――
紫色の平原が現れた。
茜と紺色が支配するこの『夕闇の境』において、初めてみる色だ。
紫苑の花が咲き乱れているのかと思い近付いてよく見ると、しかしそれだけではない。薊や藤紫、スターチス、菖蒲、アカツメクサ、パンジー、紫陽花…様々な種類の花が季節に関係無く咲き乱れていた。その中には――折り紙や紙細工、どう見ても絵に描かれた花までもが、本物の花の様に揺れている。
そして、それぞれの花達に共通することがひとつ。
全て――紫色の花。
「紫苑さん、これってもしかして…」
私の問いかけに紫苑さんは静かに頷いた。
「葛葉ではこの場所を『裏見園』と呼んでいます。若葉さんの思った通り、怨みを乗せて葛葉へと齎された怨み花達の眠る場所です」
「怨み花の…眠る場所…」
「怨みを此岸に留めるはよしとせず。さりとて冥途には流せず。なれば狭間に身を寄せ静かに眠らせよう――葛葉に伝わる、悲しい場所です」
「こんなに…」
森の中にあるとはいえ、それこそ東京ドーム1つ分はありそうな紫色の花園。
葛葉にそれだけの歴史があると驚くべきなのか。それとも、これだけの人を祟り、葬ってきたのかと戦慄するべきなのだろうか。
何と口にすれば良いのか、言葉が思いつかずただ『裏見園』を眺めていると、紫苑さんが口を開いた。
「ご存知の通り、私の両親は殺されました」
声に振り向くと、そこにはいつもと同じ表情の紫苑さんが居た。
「残されたのは、陰陽師としては未熟な私と守り刀の相志のみ。葛葉の家はその地位を失い、私には物部の嫁としての居場所が残されるのみとなりました」
確かに以前、物部勝比呼という男が店を訪れた時、紫苑さんの事を『ボクの方は将来のお嫁さん、と思っている』と言っていた事を思い出す。あとで紫苑さんに正体を聞いて、とんでもないことをしてしまったとガクブルしていたんだっけ。
「ですが私は、物部から姿を隠し、陰陽師としての力をつけて野に下り、この祟り屋家業を続けてきたのです。ある一つの目的の為に」
ほんの少しだけ目を伏せて語る紫苑さん。
「紫苑さんのご両親の仇討ち…ですね」
私の答えに紫苑さんは小さく頷いた。そして力強い眼差しで私を見て言った。
「私と相志は、仇の相手諸共、死ぬことになります」
私は自分の耳を疑った。
死ぬ、と言ったの?紫苑さんが――死ぬ?
「しかし、死出の旅路の道行きで思わぬ人に巡り会いました。私に匹敵する巫力を持つ弟子――若葉さんに」
そして、思いがけない言葉に動揺を隠せない私に向け、
「若葉さんはこの『裏見園』を――『葛葉』を引き継ぎ、守っていってくださると約束して下さいますか?」
紫苑さんはとても美しく――けれど寂しそうに、微笑んだ。
並の人たちならば、その笑顔を見ただけで陶酔のうちに頷くことになるのだろう。紫苑さんにはそれだけの力が。美しさがある。
けれど――
「そんな約束――できません」
私は紫苑さんを見つめ返し、はっきりと言い切った。
「大体、どうして死ぬ事が前提なんですか?!紫苑さん程の陰陽師と相志さんなら親の仇くらいサクっとやっつけて、涼しい顔して帰ってきてくださいよ!『死ぬから後はヨロシク』だなんて、そんな事急に言われて!はいそうですかって頷けませんっ!」
何故、そんな諦めのような言葉しか言わないの?私の叫び声が紫の花園に響き渡る。
「…ですが文武共に最強と言われた両親を殺せるほどの相手です。私と相志は仇を道連れに死ぬつもりで、ここまで生きてきました。そしてその為にと準備してきた最強の祟り――『百鬼夜行』は、もう成されているのです」
祟りは成されている。それはつまり――確定しているという事なのか。
「…祟りはキャンセル出来ないんですか?!」
「葛葉の祟りが打ち消された事は、過去の一度に於いても存在しません」
葛葉の祟りに仕損じ無し。正に絶望的。しかし…
「若葉さんにはもっと色々な事をお教えしたかったのですが…」
紫苑さんが何か言っているが、私は胸の奥から湧き上がる感情の波に、耳の奥がジンジンして聞こえていなかった。
「そんなのっ!」
そうして搾り出せた言葉は。
「…やってみなくちゃ分からないじゃないですか」
紫苑さんが生きる事を諦めるほどの強敵。口ぶりからするに、既に見当は付いているのだろう。けれど、だからといって。
「戦う前から諦めてどうするんですか!負けを認めてどうすんですか!涼しい顔して情けない事言わないでください!それでも私の師匠ですか!?何代も続く最強最悪の陰陽師、葛葉の頭領ですか!!」
「いや、最悪とは言ってな…」
「私だって未熟だけど、葛葉の陰陽師です!『一緒に戦え!』くらい言ってくれたっていいじゃないですかっ!」
その言葉に紫苑さんの眼が冷たい光を放った。
「――死にたいのですか?」
けれど私も負けじと声を張り上げる。
「そんな訳ないじゃないですかっ!気持ちの問題なんですっ!」
必死な私にほんの少しだけ気圧されている様にも見える紫苑さん。
「紫苑さんが『死ぬ』だなんて弱音吐いている時に相志さんも相志さんです!好きな女の一人位守ってみせるって言ってみろってぇの全く!」
「すきって…えっ?」
「紫苑さんが一人で着替えも出来ないとかこれじゃ恋愛対象として見られないとかケーキ作りと祟り以外はてんでダメ子だとかいっつも愚痴る癖に!」
「そこまで言っているのですか…?」
ショックを受けたような紫苑さんの声が聞こえたが、私の話は堰を切ったかのように止まらなかった。
「そのクセ自立させようという気は無くて甘やかしだし!それに都合のいい時だけ『俺達は刀だ、自らの意思で誰かを傷付ける事は無い』なんてそんなの、只の逃げ口上です!それって要するに『僕らに責任はありましぇん!』て事じゃないですか!『愛する紫苑様に仇なす奴は誰であろうとぶった切る』くらい言って見せろってんですっ!最強最悪の陰陽師の護衛のくせに甘っちょろいんです!」
「また最悪って…」
かなり凹んでいるようだけどこの際気にしていられない。
「あーもうっ!この際だから聞いちゃいますよ?!紫苑さんは相志さんの事、どう思っているんですか!!」
ズビシと指を突きつける私。言っちゃった。聞いちゃった。でももう止まれない。このビッグウェーブに乗り続けるしかない。
「わ、私には敵討ちという使命があります。それを他所にして自分の意思なんて…」
「自分の気持ちを優先しろって言ってるんです!最強最悪の陰陽師の頭領でしょ!ワガママくらい言ってみて下さい!」
ごにょごにょと話す紫苑さん。声を上げてビシバシと話す私。
「だ――」
「だ?ほらそこハッキリと!」
「大事な――ひとです」
ほんのりと頬を染めながら話す紫苑さん。昇天しそうな程に美しい。普段だったら眼福じゃあって悶えているんだろうけど、今の私はそんな想いを我慢していた紫苑さんにも相志さんにも無性に腹が立っている。ビッグウェーブはまだ止められない。
「ほら言えた!それをちゃんと相志さんに言わずに死んじゃうつもりですか?そんな事したら死んだ紫苑さんを私が祟りますからね!」
鼻から荒い息をプンスカ吐き出しながら大波に乗り切っちゃいました。いろいろ爆弾発言もした気がするけどキニシナイ。それもこれも最強最悪の陰陽師のくせにナメた口聞いているからなんだ。そういう事にしてくださいお願いします。本当は心臓バクバクだし足ガクガクだしで死にそうなんです私。
「…ありがとうございます、若葉さん」
けれど紫苑さんは、そんな私を見て、初めて。心の底から笑ったように見えた。
「まるで呪いが解けた様です…捨てたと思っていたモノに、私達は自ら縛り付けられていた、という事なのでしょうね」
初めて見る、紫苑さんの柔らかい笑顔。これならどんな男でも女でもイチコロだろう。でも――
「けれどもう遅いのです」
その笑みの奥に、私は一片の希望さえも見出す事が出来ませんでした。
「葛葉流陰陽術秘奥義『百鬼夜行』は、相手の命と術者の命を飲み込み喰らうまで止まらないのです」
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