初雪は瑠璃色に響く

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 はじめは苦手だった古民家特有の建て付けの悪い引き戸にも、この5年でずいぶんと慣れた。  私は柱の隙間から吹き込むすきま風を浴びながら、戸の上側を向こうへ押しやるようにゆっくりと木戸を右へ引く。  いつもはただでさえ少ない来客を拒むように簡単には開かない戸が軽々と動きはじめると、差し込む日の光に押されるようにして冷気と淡いラベンダーの香りが、私の作務衣をはためかせながら狭い工房へと勢いよく流れ込んでくる。  「よっ、センセ。 今年も来ちゃった。」  逆光に黒く染まりながらも、赤のロングコートを纏った神崎瑠璃香の顔には笑顔が貼りついているのがはっきりと分かり、つい私も口角をそれに似せてしまう。  「今年はえらい遅かったやんか。 まあ、まだ初雪は降らへんけどな。」  「だって社長が仕事入れてくるんだもん。 12月から3月は休みって契約してんのにさあ。」  「カメラの腕を信用されとるからやろ。 もっと喜んだらええのに。」  私の言葉に瑠理香はぷうっと頬を膨らませると、工房の中へと身を滑り込ませてから赤い紙袋を得意気に私に掲げてみせた。  「これ、いつものお土産。 三時だしお茶入れてセンセも一緒に食べようよ。」  私は悪態をつきながら戸を閉め、瑠理香の腰かける粗末なテーブルの横に置かれたコンロに水の入った小さなやかんを乗せた。  ちりちりという小さな金属音を響かせながら温度を上げてゆく湯を横目に、私は瑠理香の好きなカップを棚のいちばん手前から出してドリッパーと濾紙を乗せる。  そこへ今朝ほど挽いたばかりのモカの粉を乗せたとき、思い出したように瑠理香が口を開いた。  「今日、雪降るよ。」  はじめ何を言っているか分からなかったが、すぐに先ほどの私の言葉に対する返答だと気が付いた。  「なにを言うとんねん。 今朝のラジオは降らへん言うてたで。」  そっけなく答えたつもりだったが、僅かに声が上ずった。  瑠理香に目をやると、棚に並んだ私の作品を見つめながら考えるような表情を浮かべたあとで、にっ、と白い歯を見せてこちらを振り返った。  「だって、雪の匂いがするもん。」  はあ?  という声が漏れた私を指さしながら瑠理香はいたずらっぽい笑みを浮かべ、先ほど閉めた戸をちょいちょい、と指さした。  それが外に出て確認してこい、という意思表示だと理解した私は、面倒くさいという意思を伝えるため乱暴な勢いで戸を開けた。  その途端に年明け間近の冷気が足元をかすめ、思わず私は身震いする。  無駄に高い敷居をまたいで外へ出ると、眼下に焼き物の里として知られる東野の集落が一望でき、あちこちに立つ煙突のうち何本かは北風に白い煙の尾を細くたなびかせていた。  私はその初めて聞く香りを確かめるため、両手を広げてゆっくりと息を吸い込んだ。  鼻腔を抜けた山あいを吹き抜ける乾いた冬の風が胸を満たしてゆく感覚が心地よい。  しかし私の嗅覚細胞は特に真新しい匂いを探り当てることができず、もういちど息を吸い込もうとしたときに背中に声がかかった。  「違うよセンセ。 もっと勢いよく吸うの。 こう!」  いつの間にか外に出てきていた瑠理香が軽く体をのけぞらせるようにして鼻から勢いよく息を吸って、ぱあっ、と白い湯気を口から吐き出す。  その動きに合わせ、肩まで伸びた黒髪がはらりと瑠理香の両頬を覆い隠す。  「んだな、やっぱし岩手も関西も雪の匂いは変わんねな!」  瑠理香がときおり口にする東北訛りが私は好きだった。  「ほら、センセも一緒にやってみて! せーの!」  そう言って瑠理香が身体をくの字に曲げる。  私は慌ててそれに倣い、のけぞるようにして勢いよく冬の空気を吸った。  すると鼻の奥、今まで意識したこともない場所に、ほんの僅かではあったが冷たさとともに、乾いた、そしてとても爽やかな淡い香りが残った。  それは冷たさの氷解とともにあっという間に薄らぎ、私が、ぱあっ、と息を吐き出したときにはまったく姿を消してしまっていた。  私は無性にいま味わった感覚を留めたくなり、もういちど思い切り息を吸った。  目を閉じたことで嗅覚に集中できたせいか、今度はその淡い感覚を脳裏に貼り付けることができたような気がした。  「どう? 雪の匂い、した?」  私は目を輝かせてこちらに笑顔を向けている瑠理香を見た。  「なんかこう……ヒャーッとしたあと、キュッとするような匂いしたわ。」  途端に瑠理香は呆れたような顔を浮かべ  「もう、情緒もなにもあったもんじゃないよ。 だいたい関西の人って、会話にガーッとかバーッとか、擬音が多すぎなんだよね。」  そう言い残してそそくさと工房へ戻っていった。  悪かったな、とわざと聞こえるように口にして、私はもういちど勢いよく雪の匂いを吸い込んでから工房へ入った。  戸を閉めると、瑠理香はちょうど沸き上がったお湯で二人分のコーヒーを淹れ終わったところだった。  「どうだった? でもこれで今夜の初雪は間違いないよね。」  こちらへ薄茶色のコーヒーカップを渡しながら瑠理香が言う。  「どないもこないも、ラジオでは今週は降らへんて言うた。」  そう言った途端にまた頬を膨らませた瑠理香だったが、すぐに目をらんらんと輝やかせた。  「じゃあさ、賭けしようよ。 今夜、初雪が降るか。」  両手を胸の前でわきわきと動かしながら、瑠理香は嬉しそうな顔でこちらを見つめている。  「賭け?」  「そう、勝った方が相手にひとつお願いを叶えてもらえるの。」  「また、ベタやなあ。」  「ベタでもなんでもいいの! はい、決まりっ! ……あ、でもそうするとずっと外を見てなきゃいけないのか。」  そう言って肩を落とす瑠理香を見ながら、私は小さく笑ってしまった。  「それやったらいい方法がある。」  私は壁に設えられた棚に並ぶいくつもの器の中から濃い青色のものを掴むと、水を半分ほど注いだ。  「あ、瑠璃色の器だ。 ……きれい。」  私は下心を見透かされたようで無性に恥ずかしくなった。  「この色は俺がいま実験で出しとる色や。 まだ完成はしてへんけどな。」  瑠理香は私の持つ器をまだしげしげと見つめている。  「まあそんなことより、や。 これを茶の間の外に置いておく。 あっこは雨だれがひどうてな、もしお前が言うように初雪が降ったら、ここに雨だれが落ちて、きれいな音がするはずや。」  私は土間から茶の間へと上がり、サッシを開けて雨だれの落ちる場所へと器を置いてからテーブルへ戻った。  「さ、今からお前にどんなお願い聞いてもらうか、考えとかなあかんな。」  私がそう言って熱いコーヒーに口をつけると、瑠理香はほんの少しだけ寂しそうに笑った。     飲み終わったあとの青色のコーヒーカップを嬉しそうに眺めながら、瑠理香が口を開いた。  「センセ、来年はどうするの? 陶芸のコンテスト。」  私はひとつため息をついてから、腕を組む。  「まだ納得いく色と形がイメージできんねん。 ……それにまだ俺には早いやろし、な。」  言葉の最後をわずかに濁らせたが、その澱みに瑠理香が敏感に噛みつく。  「え、センセ、まだお師匠さんに謝ってないの?」  遠慮のない尖った台詞が、瑠理香のよく通る声に乗って胸にぐさりと突き刺さった。  「謝ってへんのとちゃう! きっかけがないだけや!」  呆れたように目を丸くする瑠理香に向かって、私は少しだけ声を荒げた。  「センセが声を大きくするときって、自分の知らない単語が出てきたとき。 あとはね、痛いとこ突かれたとき。」  寂しそうにそう口にする瑠理香の目は、私の心の弱さまで見透かすように、どこか凛とした強さを秘めていた。  きっかけがないのではない。  瑠理香が思うとおり、私が、逃げているだけなのだ。  高校の修学旅行ではじめてこの土地を訪れたとき、偶然という脆い出来事が生み出す陶器の魅力に取りつかれた私は、親の反対を押し切って大学進学をやめ、この東野の地域で古くから窯を構える矢代窯の社長である矢代守という陶芸家に弟子入りした。  それから7年の下積みを経て、ようやく自分の作ったものが売れるようになったころ、私は矢代窯から独立してネット販売を中心とした自分の工房を持ちたいという野心を持った。  私がそれを伝えると師匠は当然のように怒り、その翌年に師匠が陶器組合の組合長に就任したタイミングで、些細な口論を切っ掛けになかば追い出されるような形でこの数十年前に廃れた窯のある古民家へと移住させられた。  私が苦々しい気持ちを濃いめのコーヒーで喉の奥へと流し込むのを見ていた瑠理香が、頭の後ろで手を組みながらぽつりとつぶやいた。  「お師匠さん……組合長だっけ。 私は怒ってないと思うんだよなあ。」  私はカップを置こうとした手を止め、横目で瑠理香を眺めた。  「組合に入ってもないお前に何が分かんねん。 まあ慰めてくれるのは有難いけどな、適当なこと言わんほうがええ。」  瑠理香はまだ手を組んだまま、眉間に皺を寄せている。  「だってさ、本当ならセンセはこの土地から追い出されてもおかしくないんだよ? よりによって組合長サマを怒らせちゃったんならさ。 でもこうやって窯付きの家まで用意してもらって、なんだかんだでちゃんと陶芸で食べていけてるじゃない。 それって師匠が怒ったふりをしてセンセをここに逃がして守ってくれてるからじゃないの?」  私は思わずカップを落としそうになるのを必死でこらえた。  今までそんなことは考えもしなかったが、瑠理香の言葉にはいくつか思い当たる節があった。  矢代窯を出るとき、退職金だと言われて少なくない額の現金を手渡され、移住させられたこの古民家も、どういう訳か水回りなどがきれいにリフォームされていた。  そして最も思い当たるのは。30ほどある窯元はどこもネットを中心とした商売をしておらず、組合の年寄りたちは古き良き伝統を守ることに腐心するあまり、新しいものを取り入れようとする私をあからさまに毛嫌いしていたことだ。  中には師匠に対して、東野陶器の伝統を壊そうとしている私を追い出せと進言していた者もいると聞く。  そう考えると師匠の行動はほぼすべての辻褄が合う。  ただの一点を除いては。  「それやったらなんで俺の工房だけ、窯元通りから外れたこんな山ん中で商売せなあかんねん。」  「それはきっと、ネットを中心に商売するっていう前提だからだよ。」  事もなげに答えた瑠理香の顔は、優しく微笑んでいた。  私はその澄んだ目に薄らぐ理性を吸い込まれそうになり、思わず視線を逸らして天井を見上げた。  それと同時に、今まで自分の中で凝り固まっていた澱が少しずつほどけ、まるで淡雪のように消えてゆくのが分かった。  「師匠が……俺を守ってくれてた?」  そう口にしたことで余計にその事実は私の心の奥深くまで根を張り、思わず熱いものがこみ上げた。  「あれ? センセ、泣いてるの?」  茶化すような言葉に私は目尻をぬぐい、瑠理香を軽く睨み返す。  「泣いとるわけないやろ。 たった今、師匠に謝って、礼言って、ほんで来年のコンテストに出すって決意したとこや!」  「お、よく言った! さすがセンセ! 私、どうしても来年はセンセに頑張ってもらいたかったんだよね。」  そう言うと瑠理香は立ち上がり、椅子に座る私の背中に抱きついてきた。  背中越しにラベンダーのほのかな香りと瑠理香の柔らかい体温が伝わり、私は思わず身体に力を入れた。  「ちょ、何すんねん。 ……恋人でもないのに、男に軽々しくこんなことしたらあかんて。」  それはまるで自分に言い聞かせるような虚しい響きを含んでいた。  瑠理香は、そうだね、と寂しそうに口にしてからゆっくりと身体を離すと、座っていた椅子に腰を落ち着けた。  それから瑠理香はゆっくりとカップを私の方へと差し出し、何も言わないまま穏やかな笑顔でコーヒーのおかわりを求めてきた。  思えば私たちの関係は実に言葉として表現しづらい。  私がここに越してきた翌年の12月、瑠理香がこの工房に立ち寄ったことがこの奇妙な関係のはじまりだった。  プロの写真家だと名刺を差し出した瑠理香は私の作品を撮らせてほしいと願い出て、私は快くそれを承諾した。  ちょうど私もサイトに写真を載せるために一眼レフを購入したばかりで、写真がなかなか思った色にならずに弱っていたところだった。  そんな私は、撮影の後で見せられたその画面に思わず言葉を失った。  そこに映っていたのは、まさに私が撮りたいと願っていた色そのものだった。  失礼とは思ったが私は瑠理香にカメラの指南を依頼し、瑠理香は快くホワイトバランスや露出についてレクチャーしてくれると言った。  しかし瑠理香はひとつ、条件を出した。  それは、家賃は払うので来年の3月まで私をここに住まわせてほしい、というものだった。  聞けば瑠理香は私と同い年で、会社との契約で12月から3月までは仕事を入れず、その間は夏に貯めたお金であちこちを転々としながら冬の写真を撮っているのだという。  そんな旅の途中に訪れたこの東野の集落に日本の原風景を見出した瑠理香はいつかここに住みたいと願っていたが、あまりに田舎過ぎて賃貸物件が見つからなかったらしい。  そこへ来てただっびろい古民家に独り暮らしの男、という絶好の物件を見つけた、というのが本音とのことだった。  私は当然のように瑠理香の申し出を断ったが、身体の関係はナシだが家事は自分が出来る限りするから、と頼み込まれ、ほぼ毎食カップラーメンという生活を余儀なくされていた私は、不承不承と言った感じでその提案を飲んだ。  そしてそれから瑠理香は毎年、桜前線とともに東京へと戻り、初雪の便りが届くころになるとここへラベンダーの香りを運んでくるようになった。  そして今年もまた期間限定の奇妙な暮らしが始まるのだ。  二人ともとうに気づいている、互いへの恋慕を肌の下に呑み込みながら。  茶の間のこたつで向かい合いながら瑠理香の作ってくれた夕食を済ませ、洗い物を手に取るたびに揺れる黒髪を眺めながら私は傍らのラジオへと手を伸ばした。  時刻はちょうど7時を指しており、聞きなれた女性DJが自分の地元の同級生が結婚するのだと声を弾ませている。  いつもならばこのあと、瑠理香がこの春から秋にかけて見聞きしたたくさんの思い出話を肴にして、8か月ぶりの再会を祝う小さな酒宴が始まる。  しかし瑠理香は夕食の前に、どういう訳か今日はお酒を飲みたくないのだと言った。  理由を尋ねるのも野暮と思い、黙っていつも私が飲んでいるりんごのジュースを用意したが、どうも今日の瑠理香には今までと違う雰囲気があった。  それを形容する言葉を持たない自分がもどかしかったが、ときおり気づく細かい挙動はふつふつと紅い火種を宿す埋火のように、瑠理香の感情が揺れ動いているのだという直感を私に植え付けていた。  「さて、洗い物終わったよー。」  真新しいタオルで手を拭きながらこちらへ小走りに近寄ってきた瑠理香は、どういう訳か私のすぐ隣へと潜りこんできた。  突然のことに思わず声を上げそうになるのをすんでのところで堪え、私は少し体を左へと寄せて隙間を作った。  「どないしたん。 俺の隣に座るなんて初めてやんか。」  声が上ずりそうになる。  瑠理香はそれに気づいたのか僅かにいたずらっぽい目になり、自分の肩の後ろにある窓を指した。  「さっきの瑠璃色の器。 小さい音でも聞き逃さないようにね。」  私は、ああ、と納得したような声を出してからラジオを消した。  「まあ、こないなことしても今夜は雨だれの音なんか聞こえへんて。」  得意気に私がそう言うと、瑠理香はうつむいて小さくつぶやいた。  「降るんだもん。 ……降ってもらわないと困るんだもん。」  その声はどこか悲壮さを湛えており、私はすこしだけ身震いした。  「そら東北生まれのプライドもあるやろけど諦めえ。 現代の気象予報は大したモンやで。」  私がそう口にしたそのときだった。    私たちの背中で、瑠璃色が美しく反響した。  カーテンの向こうを確認しようと慌てて立ち上がろうとしたその手を瑠理香がきつく握り、立ち損ねた私はそのまま畳に背中をついてしまった。  目の前には照明を背に受けた瑠理香の美しく微笑む顔があり、さらりとした黒髪が私の頬を優しく撫でた。  「ちょ、何すんねん……。」  そう言いかけた私の唇を、約束、と言った瑠理香のそれが柔らかく塞いだ。      静寂の戻った寝室を照らす常夜灯の淡いオレンジの光を遮るように、天井を見上げるふたりの白い吐息が螺旋のように交じり合い、やがて消えてゆく。  私の匂いが染みつき、すっかりくたびれた布団のあちこちから、ラベンダーがほのかに香っていた。  私の隣ではつい先ほどまで軽く息を荒げていた瑠理香が、ほんのりと上気した顔を私に向けていた。  「センセ。 好きだよ。」  唐突に鼓膜を駆け抜けた甘美な言葉に、私は思わずしっとりと汗の浮いた瑠理香の身体を抱きしめた。  「俺かて瑠理香が好きや。 たまらんくらい好きや。 だから今はセンセて呼ぶな。」  「うん、分かった。 大好きだよ、隆太。」  瑠理香は私の耳元で小さくそう囁いてから、照れたように笑う。  それから瑠理香はゆっくりと身体を離し、天井に向かってつぶやいた。  「でも、ごめんね……。」  私が驚いて身体を起こすと、瑠理香の頬を涙が伝っていた。  「私ね、移植しないと治らない病気が見つかったんだよ。 それでね、お医者さんがこのままだとあと1年って。」  私の目は、耳は、脳は、葛藤という感情を用いてすべての情報を否定しようと試みる。  「なんでや! なんで今そんなこと、いや、なんで瑠理香がそんなことになんねん!」  瑠理香は嗚咽を堪えながら一生懸命に言葉を繋ごうとする。  「だからね、せめてこの数年言えなかった想いは隆太に伝えようって思ったの。 私が生きた証を隆太の心と記憶に残そうって。 それが私のお願い。」  私はどう答えていいか分からずに、ただ口を結ぶことしかできなかった。  「明日、東京に帰る。 ドナーが見つかったときにすぐに行けるようにしておかないとだめだから。 さっき隆太の携帯から私の番号も消しておいた。 これで隆太は私のこと忘れ……。」  最後まで言わせないように、私は力強く唇を重ねた。  「嫌や、そんなん認めへんぞ! ようやっと俺も瑠理香に好きって言えたんや! それをこんな、こんなっ。 何でなんや!」  私はあらん限りの声で叫んだ。  しかし、頭のずっと奥ではどうすることもできない現実であることは理解していた。  私は滂沱の涙を流しながら、もういちど瑠理香を強く抱きしめた。  ふたりの涙は、淡い湯気となって冷たい部屋を満たしてゆく。  鼓動の音が重なるだけのしじまに、もういちど瑠璃色が美しく響いた。      あれからいくつかひとりで過ごす冬が過ぎ、その分だけ私は年を重ねた。  私は少し白髪の混じり始めた髪を気にしながらろくろを回し、ラジオから流れる初雪の便りを聴いている。  瑠理香はもしドナーが見つかり移植ができたとしても、完全な健康体になるまでには何年かかかると言っていた。  そして、もしそうなったらここにまた初雪と一緒に遊びに来ると。  私はもう何度も期待を込めて初雪を見送ってきた。  その間に私は自分の作品で瑠理香の生きた証を残そうと、何度も研究を重ねてついに美しい瑠璃色へと辿り着き、その色を使った器で去年、最優秀賞を取った。  出来あがったのは濃い瑠璃色の底に、淡雪が融けたような白。  私はそれを「瑠璃花に滲む初雪」と名付け、工房のいちばん奥に飾った。  ふと聞こえた戸をノックする音に私は身体を強張らせる。  時計に目をやると、宅配便が集荷に来る時間に近かった。  私は肩を落としながら相変わらず来客を拒む戸に近づき、取っ手に手をかける。  戸が傾くのに合わせて柱のすきまをすり抜けた風は、ほのかな雪の匂いと懐かしくかすかな花の香りを孕んでいた。  記憶が揺れる。  私は思わず手に力を込め、思い切り木戸を右へ引いた。  「えらい遅かったやないか。」  差し込む日の光に押されるようにして冷気と淡い香りが私の作務衣をはためかせながら狭い工房へと勢いよく流れ込み、いちばん奥に置かれた瑠璃色の器を優しく包んだ。
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