天使と使命とカンバスと

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『カンバスに天使を取り戻しなさい』  突如頭に響いた声。ゲルトは口の中で小さく呟いた。 「やっと来たか」  人はその生涯に一度、神から使命を与えられる。  それは木を植えるだとか、隣人を助けるとか、戦地に赴き交渉するだとか。  規模も、伴う危険も人によって違う。基準はわからない。  だが、どれも神に与えられた使命だ。すべての民が己の持つ全てをかけて使命を果たした。  ゲルトの妻もそうだった。  彼は胸元のペンダントに触れる。 「僕も使命を果たすよ」  ゲルトは静かに目を閉じた。  ゲルトの頭に神からの声が届く。彼の使命はこうだ。  この国には有名な絵がある。一家に一枚必ず飾られているような絵だ。そこに描かれているのは人々を悪魔から守る天使の姿。凛々しく可憐な少女。  その天使が一週間前から姿を消してしまった。ゲルトも気づいていた。  絵にはぽっかりと穴が開いた。すでに悪魔は天使の不在をいいことにカンバスの中を荒らしている。  天使の居場所は神が把握している。それはカンバスの奥。表面からは見えない世界だそうだ。  ゲルトは壁に掛けられたカンバスに手を伸ばした。その手のひらが絵の中に沈み込む。  奇妙な感覚に恐れをなし、ゲルトは思わず胸元のペンダントを握った。彼は臆病だった。  やがて、ゲルトはカンバスに呑まれていった。  ゲルトが落ちたのは岩陰だった。ひんやりとした土の地面に手をつく。  音が聞こえる。それは笑い声と悲鳴だった。  岩陰から顔を覗かせると、そこには地獄が広がっていた。悪魔が人間を食らっている。  とがった耳。山羊の角。血色の悪い肌。恐ろしく細い体。身には何も纏っていない。手には三又の槍、そして、人間だったものの一部。  悪魔がけたたましい笑い声をあげている。  質素な服。善良そうなその顔は恐怖に歪んでいる。男も女も子どもも老人でさえも。  人間が悲鳴を上げている。  ごく一般的な農村だったのだろう。だが、家畜は殺しつくされ、家は燃えている。木々は切られ折られ、どこまでも無残だ。  天使のいなくなった絵の中はすでに悪魔の領域だった。そこには残酷と悲惨があふれていた。  ゲルトは震える身体を押さえつける。  向かうべき方向はわかる。己は行かなければならない。罪のない人を見殺しにしても。  臆病なゲルトは彼らを救うことなどできないだろう。だが、何もせずにこの場を去るのは吐き気がするくらい気分が悪いことだった。  ゲルトは怯える己を叱咤し、一歩一歩足を動かした。   どれくらい歩いただろうか。突然視界が開けた。そこは天も地もない真っ白な空間だった。  ここには悪魔の声も人の声もない。何もないのだ。  神の声が消えた。ここは神すら手の届かない場所なのかもしれない。  真っ白な道が色づき始めた。だが、それは決して気分の良いものではなかった。  道の先々に描かれるのは神への冒涜。  折れた十字架、血を吐き、死に絶えた喇叭。地に埋まった神の像。  ゲルトは顔をしかめる。そのうち、キャンパスが転がるようになった。そこに描かれているのは一人の美しい少女だった。見覚えがある。天使だ。  だが、いつも見る絵とは違う。ゲルトはカンバスを拾う。  天使と同じ顔。だが、そこに描かれているのは、ただ幸せそうに笑う一人の少女だった。  ゲルトはカンバスを優しく地面におろし、その場を後にした。    さらに歩くと、大きな木に行き当たった。緑に色づいた葉に、赤い果実。林檎だ。  大きく美しく実った林檎。これも神への冒涜なのだろうか。  それにしては、あまりにも綺麗だった。  木を見上げ、歩くゲルトの足元で何かが砕けた。下を見ると、林檎がガラスのように砕け散っていた。赤い破片があたりに散らばった。 「お兄様、私は戻ります」  林檎の木の裏から透き通った声が聞こえた。ゲルトは顔を上げる。 続けて若い男の声が聞こえた。 「そんなわけにはいかない。もう、お前を戦地に送り出すなんて御免だ」  どうやら込み入った話をしているようだ。ゲルトは逡巡したが、声のする方に足を進めた。  そこには美しい、少女と青年がいた。二人の顔立ちはよく似ている。先ほどの話からも二人が兄妹というのがわかる。  少女はその華奢な身体に不釣り合いな甲冑をまとっており、青年は絵の具にまみれた作業服を着ていた。  二人の顔がゲルトに向いた。ゲルトは少女に尋ねる。 「あなたは天使様ですか?」 「そうです」  緑の瞳がゲルトをまっすぐと見つめる。そしてまた、彼女もゲルトに尋ねる。 「あなたは?」 「申し遅れました。僕はゲルトといいます。神の使命の元、貴方をお迎えに上がりました」 「帰れ」  そう言ったのは青年だった。彼はゲルトと少女の間に割って入り、ゲルトを睨みつける。 「神の使命だろうが何だろうが、妹を渡す気はない。二度と来るな」 「お兄様」 「お前は黙ってろ!」  青年は荒々しく声を上げる。その激しさにゲルトは怯むことはない。ただ、困っていたのだ。青年の眼には涙が浮かんでいる。  少女もそれに気づいているのだろう。青年の隣に寄り添い、そして、その強く握られた手に手のひらを重ねた。少女は眉を下げながら、ゲルトに小さく頭を下げる。 「お手を煩わせて申し訳ありません。すぐ参りますので」 「嫌だ!」  青年が叫ぶ。 「行くな、行かせない!もう、お前の苦しむ姿なんか見たくない!」 「お兄様。それでも私は」 「嫌だ!」   青年は重ねられた少女の手を強く握る。 「お前は神の使命を全うした。なのに死んでもなお、どうして悪魔と戦わないといけないんだ!」 「それが使命だからです」 「違う、俺が描いたからだ。お前が戦う絵なんて描いたからだ。俺は神に逆らうべきだったんだ!」  天使の絵を描いた天才画家の名をゲルトは知っていた。数多くの宗教画を手掛けた若き画家。彼の描いた絵には命が宿ると言う。 「二度と、二度とお前を離さない。離したくないんだ……」  少女の腕に縋りついた青年。少女はその頭を優しく撫でる。それはまるでゲルトと妻の最後のやり取りのようだった。  青年の瞳から大粒の涙が落ちる。 「行かないでくれ、頼む……。もう二度といなくならないで……」  もう一度機会があれば、二度と離しはしない。  ゲルトとてそうだ。何度その夢を見たか。  少女はゲルトを見て申し訳なさそうな顔をした。 「ごめんなさい。お待たせして」 「いいえ」  ゲルトは首を横に振った。そして、少女に問う。 「貴方には大切な人がいる。それでも貴方は行くというのですか?」 「はい。それが使命ですから」  ゲルトの妻もそう言った。ゲルトはその言葉に手を離した。 彼女は帰ってこなかった。もう二度と会えない場所へと旅立った。  青年は少女の手を離さない。彼は子どものように泣きじゃくり、少女の手を握り続けている。  己もそうすればよかった。  ゲルトは深く息を吸い、少女を見つめる。 「もう一つだけ聞かせてください」 「はい」 「それは本心ですか?」  少女は目を見開き、言葉に詰まった。そして、下を向いた。それが頷いたのか俯いたのかはわからなかった。  だが、それで十分だった。  体は震え、心臓が早鐘を打つ。己の下した決断。それはどこまでも身勝手なもので、どこまでも恐ろしいことだった。  だが、決めた。ゲルトは選んだ。 「逃げなさい」  ゲルトのその言葉に兄妹ははじかれたように顔を上げた。 「逃げる?」 「ああ、そうだ」  青年の問いにゲルトは強く頷いて見せる。 「二人で、どこまでも、神の手が届かない彼方まで逃げなさい」 「しかし、それでは神に背いたあなたが――」 「わかっています」  少女の言葉を遮りゲルトは答える。  神に背いた者には必ず罰が下る。怖くてたまらない。それでも、貫きたいものがある。  青年はゲルトを怪訝な目で見た。 「何故そんなことをする。お前に何の得もない」 「僕は君と一緒なんだ」  ゲルトは小さく笑った。 「神の使命で妻を失った。僕は妻の手を放してしまったんだ」  青年は息を呑んだ。ゲルトは彼に言う。 「君は大切な人の手を離してはいけないよ」 「ああ、もちろんだ」  固く頷く彼の眼にもう敵意はなかった。ゲルトは小さく深呼吸する。 「その代わりといったらなんだが、君に頼みたいことがある」 「なんだ?」  ゲルトは首にかけたペンダントを外す。それは写真の入ったロケットペンダントだった。  ペンダントの蓋を開く。そこには笑顔の妻の写真が収められていた。いつでもゲルトの胸にあった写真。それだけが今にも倒れそうなゲルトを支えてくれていた。  別れを惜しみ、ゲルトはペンダントを強く握る。そして、その手を頭にやり、目を閉じた。  ありがとう。  そう口の中で唱え、目を開く。青年にそれを手渡す。彼は壊れ物を扱うような丁寧さでそれを受け取ってくれた。  ゲルトはある天才画家の名を口にする。 「君がそうなんだろう?」 「ああ」 「君の描いた絵には命が宿ると聞いている」  彼の絵は何枚も見てきた。だからこそ頼みたい。ゲルトは青年の手に乗ったペンダントに目を移す。 「彼女が、妻が幸せな絵を描いてほしい」  ゲルトとともにペンダントを見ていた青年が顔を上げる。そして、力強い声で言った。 「必ず」 「ありがとう」  ゲルトの目じりに涙が浮かんだ。だが、彼はすぐにその雫を払う。 「さあ、急いで逃げよう。絵の外までは僕が案内する」  二人を引き連れ、ゲルトは道を進む。  地獄の様相を見て、少女の足が止まった。ゲルトは小さな声で彼女に言う。 「大丈夫。悪魔と戦う誰でもない誰かを僕が描くから。きっとその人が皆を救ってくれる」 「あなたも画家なのか?」  青年に問われ、ゲルトは首を横に振り、茶目っ気たっぷりに言う。 「絵の才能はからっきしだ」  青年は少しきょとんとした後、口に手を当てて笑う。 「それはいい」  少女は不安そうだったが、青年に背を押され、また歩き出した。    絵を抜けたころには夜更けだった。人々は寝静まっている。逃げ出すにはちょうどいい。  ゲルトはありったけの金と生活に必要だろうものを彼らに渡した。  青年にはゲルト自身の服を、少女には妻の服を着せる。これで、外に出ても訝しまれることはないだろう。 「本当にありがとうございます」 「この恩は一生忘れない」  少女と青年は頭を下げる。 「どうか、どうか。幸せに」  ゲルトはそう言って彼らを見送った。  羨ましくてたまらなかった。己も妻とともに逃げたかった。  彼女と暮らした短くも幸せな日々が頭をよぎる。ずっと続くと思っていたのに。  ゲルトの頬に涙が伝う。やがて耐え切れずに蹲った。 「うっ……。う、あ」  声を殺して泣いた。だが、我慢できなかった。ゲルトは大声をあげて泣いた。  悔み、悲しみ、苦しみ泣いた。だが、彼はすぐに涙をぬぐった。  きっと時間がない。あの兄妹のために己は何をすべきか。  ゲルトは鉛筆を取り出し、天使が抜け、悪魔が暴れるカンバスに黒を落とす。ざり、ざり、と静かな部屋に鉛筆の音が響く。  一生懸命描いた。何時間もかけて、丁寧に、丁寧に。  空が白んできた。カンバスに浮かぶのは男か女かすらわからないあまりにも拙い絵。それでも、それは悪魔と戦っていた。  朝日が昇ったころ、ゲルトの心臓は大きく脈打った。そして、彼はそのまま帰らぬ人となった。
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