塵界

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 掃除とは思った以上に体力を使うものだ、と私は改めて痛感した。重い家具を動かしたり、棚の中身を残らず引っ張り出してはまた戻してといった作業をこなしたせいか、腕や腰が鈍く痛む。  だが、今の私はそんなことも気にならないほど清々しい気分に浸っていた。床に散らばっていた細かい紙くずや髪の毛はすっかり取り除かれたし、棚の裏に溜まっていた埃も掃除機で吸い取った。それでも除ききれなかった細かい埃は、固く絞った雑巾で丁寧に拭き取った。  ここまで大掛かりな掃除をしたのはいつ以来だろうか。心なしか、部屋に満ちる空気もすっきりと清らかなものになった気がする。  かつてないほどの満足感を胸に、私はゴミの詰まった袋を家の裏に持っていった。掃除道具を片付けて、コーヒーでも飲んでゆっくりしようと思ったのだが、綺麗になった部屋をもう一度見たくなって、再び部屋へと戻ってきた。  「ん……?」  いつの間にか、部屋の入り口前に妻が立っていた。両腕をだらりと下げ、部屋の中をぼんやりと見つめながら立ち尽くしている。  きっと、私が柄にもなく掃除をしたことに驚いているのだろうと思った。頑張ったのだから、少しは褒めて貰えるだろうか……。そんな子どもじみたことを考えつつ、私は妻の隣に立って部屋の中を覗き込んだ。  「どうだ、びっくりしただろ? お前が頑張ってるから、俺も負けてられないと――」  「埃は?」  得意げに語っていた私に、妻は冷や水のような短い言葉を投げつけてきた。  「埃はどうしたの?」  妻はさらに言葉を浴びせてくる。予想もしていなかった表情を見せられて、私はただ戸惑うことしかできなかった。  妻の目も、言葉も、研いだばかりの包丁の如き鋭さを帯びていた。その奥では、黒くどろりとした感情が渦巻いているように感じた。   「どうしたって……裏に捨ててきたよ。お前だって、いつもそうして――」  突然、耳元で何かが弾けた。耳の奥を大きな音が突き抜け、左頬が熱と強い痛みを帯びる。視界がぐるりと回転して、私は床に強く体を打ちつけた。  何が起きたのか分からなかった。分かっても、どうしてこんなことをされるのか理解できなかった。  「何てことすんのよっ!!」  バランスを崩して倒れ込んだ私に怒鳴りつけ、妻はどかどかと床を踏み鳴らしながら駆け出して行った。床の振動が私にも伝わり、ぶつけた箇所を容赦なく揺さぶっていった。  一体、何が気に食わなかったんだろうか。  私はふらふらと立ち上がり、打たれた頬をさすった。妻の大切にしていたものを捨ててしまったのだろうか。だとしたら申し訳ないと思うのだが、私は「埃をどうしたのか」としか訊かれていないし、埃以外のことについては何も話していない。  だからといって急に怒鳴って、しかもこんなに強く引っ叩くことはないじゃないかと、妻に対する怒りが込み上げてきた。とはいえ、私のせいで機嫌を損ねてしまったのは事実だ。ここはひとまず謝って、妻が何に腹を立てたのかを知らなくては――  そう思った直後、私の隣を黒い大きな影が駆け抜けていった。あまりにも速くてすぐには分からなかったが、物置の中へ勢いよく飛び込む姿を見て、影の正体が妻だということを理解した。 家中に響き渡るほどの凄まじい音を立てて物置の扉が閉まる。よっぽど腹を立てているのか、声をかける隙も全くなかった。  ただ一つ、気になったことがある。妻は私が捨てたゴミを、袋ごと持ってきていたのだ。
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