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紫と霧
風が吹き荒れる十一月の暗い朝だった。水道管が凍り、薬缶の湯をかけて溶かさなければならないので私はシャツにスラックスと靴下という部屋着の格好で、台所の五徳の前に立っていた。薬缶を乗せ湯が沸けるまでの間立ったまま新聞に目を通す。一面記事によると世の中は不景気で先の大戦に負けて負わされた戦争負債の支払いに、戦後数十年経っても政府は四面楚歌らしかった。風に揺れる窓の外では私の部屋のように安普請の小さな集合住宅が軒を連ねている中、目覚まし屋と呼ばれる人々が細長い棒で叩いたり豆を管から飛ばして窓に命中させたりして人々を起こしに来ている音がした。薬缶が細い音をたて、私は黒いベロアに金色の飾紐が胸元と袖口に二本付いた外套を肩にかけ獅子の紋章が入った子羊の皮の黒い手袋をはめて木の扉を開き外へ出た。身を裂くような寒風に歯を鳴らしながら水道管に湯を当てると氷は湯気を立てて流れていった。身体を起こすと遠くから耳慣れた声が聞こえ、顔を上げなくてもその正体に気付いていた私は扉を開けて早々と中へ入った。朝の青い光が漏れている乾いた扉の隙間から見ると煉瓦塀に積み上げられた古い椅子や割れた燭台の陰から老いた男が一人こちらへ近づいてくるのが見えた。枯れかけた椿が胸元から覗く黄ばんだ薄手の上着を翻し老人は、燃え上がる怒りの炎、手を伸ばそうとも届かない、と言いながら扉の前を遠り過ぎた。残った湯を琺瑯の洗面器に入れて水を足し、石鹸で顔を洗う時、なんとはなしに私は自分の掌を見る。中央に薄紫の染みがある両手の皮膚は誰かがうっかり落としたインクのようにも見える。髭を剃ったり歯を磨いたりしてから背に外套をかけた椅子に座り朝食を食べるのだが、その日は先日仕事が遅くなったために市場で生鮮食品を買い損ね、黒パンとチーズという簡素なものだった。それでも私は味わって食べ終え、出勤前に鏡の前に立ってから部屋を出て、扉に鍵をかけてから通りを歩き出した。
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