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始まっていた
六方はめずらしく素直に首を横に振りました。
狐の窓を通しても、何も見えないと言うのです。
「女将には見えますか」
彼の問いに、キツネの女将はまた口元を隠しました。
「言われてみれば、見えてはいませんね。においがする、というのが正しいかもしれません」
「においですか。僕は分からないな。タヌキ先生もにおい、分かりますか」
僕の質問に、タヌキ先生は鼻をひくつかせて匂いを嗅いでおりましたが、やがてこう答えました。
「匂い……よい香りではなく、臭い方のにおいを感じます」
今は人に化けているので鼻はさほど利かないそうですが、それでも人間の倍以上は良いと言います。
「大変恐縮ですが、高縄さんからにおってくるようです」
「昨夜はちゃんと風呂に入ったんですが」
僕は自分の腕や肩のにおいを嗅ぎました。
「分からないなあ」
女将が、つと目を細めました。
なめらかな頬に浮かぶ笑みに、僕の目は釘付けになります。
「教えて差し上げましょうか」
「女将さんが? ぜひお願いします」
何を教えてもらえるのか分からないまま、僕は頭を下げました。
ちょっとした実験の被験者になった気分でした。
女将はカウンターの中から出てきて、玄関近くに椅子を置くと、僕を座らせました。
タヌキは三歩離れたところから、こちらを見ています。
六方は渡された南部鉄の灰皿を持って、僕の右脇に立っていました。
「マジックショーで舞台に上げられた観客のようだな」
女将が何を見せてくれるのか、楽しみです。
「鳩は出ませんよ」
僕の左手に立つ女将はそう言うと、身をかがめました。
すでに「変化」を解いて、六方の言っていたセーターにダウンジャケットを羽織った姿になっています。
和服姿の落ち着き具合は薄れ、本当に僕より一回りも年上なのかと疑うほど、若々しく見えました。
「始めますよ」
女将の声が、すぐ左耳の近くで聞こえます。
思わず顔を動かそうとすると、左右の手が伸びてきて、僕の頭を正面に固定しました。
右手は後頭部、左手はあご下に置かれています。
顔が、近づいて来るのが分かりました。
「怖がらずに、肩の力を抜いてください」
そう言うなり、女将は僕の左耳に息を吹きかけました。
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