始まっていた

1/4

10人が本棚に入れています
本棚に追加
/22ページ

始まっていた

六方はめずらしく素直に首を横に振りました。 狐の窓を通しても、何も見えないと言うのです。 「女将には見えますか」 彼の問いに、キツネの女将はまた口元を隠しました。 「言われてみれば、見えてはいませんね。においがする、というのが正しいかもしれません」 「においですか。僕は分からないな。タヌキ先生もにおい、分かりますか」 僕の質問に、タヌキ先生は鼻をひくつかせて匂いを嗅いでおりましたが、やがてこう答えました。 「匂い……よい香りではなく、(くさ)い方のにおいを感じます」 今は人に化けているので鼻はさほど利かないそうですが、それでも人間の倍以上は良いと言います。 「大変恐縮ですが、高縄さんからにおってくるようです」 「昨夜はちゃんと風呂に入ったんですが」 僕は自分の腕や肩のにおいを嗅ぎました。 「分からないなあ」 女将が、つと目を細めました。 なめらかな頬に浮かぶ笑みに、僕の目は釘付けになります。 「教えて差し上げましょうか」 「女将さんが? ぜひお願いします」 何を教えてもらえるのか分からないまま、僕は頭を下げました。 ちょっとした実験の被験者になった気分でした。 女将はカウンターの中から出てきて、玄関近くに椅子を置くと、僕を座らせました。 タヌキは三歩離れたところから、こちらを見ています。 六方は渡された南部鉄の灰皿を持って、僕の右脇に立っていました。 「マジックショーで舞台に上げられた観客のようだな」 女将が何を見せてくれるのか、楽しみです。 「鳩は出ませんよ」 僕の左手に立つ女将はそう言うと、身をかがめました。 すでに「変化(へんげ)」を解いて、六方の言っていたセーターにダウンジャケットを羽織った姿になっています。 和服姿の落ち着き具合は薄れ、本当に僕より一回りも年上なのかと疑うほど、若々しく見えました。 「始めますよ」 女将の声が、すぐ左耳の近くで聞こえます。 思わず顔を動かそうとすると、左右の手が伸びてきて、僕の頭を正面に固定しました。 右手は後頭部、左手はあご下に置かれています。 顔が、近づいて来るのが分かりました。 「怖がらずに、肩の力を抜いてください」 そう言うなり、女将は僕の左耳に息を吹きかけました。
/22ページ

最初のコメントを投稿しよう!

10人が本棚に入れています
本棚に追加