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家路
虫騒ぎもひと段落して、席に戻った僕らは最後にいなり寿司をいただきました。
お揚げのあまからい味が絶品で、おかわりが食べたくなるほどです。
「やはり油揚げと言えば、狐だな」
六方の呟きは、どうやら褒め言葉のつもりのようでした。
ようやく熱も冷めてきた僕の脳に、ある考えが浮上してきました。
「もしかして女将が教えてくれることって……、いや、僕たちをここへ招き入れたのって、そもそも僕が虫に取り憑かれていたからですか」
六方が、「そのようだな」と素っ気なく答えると、女将は笑って手を振りました。
「それもありますけど、まずは太貫先生に娘のことをどうしてもお願いしたかったのです。先生は狸の変化、狐とは違う種類の強力な術をお使いになられますからね」
タヌキが胸を張るのを見て、僕はあやうく笑い声を上げそうになりました。
これまで見聞きした限りでは、彼にそれほどの能力があるようには、とうてい思えなかったのです。
「それでも放っておかれたら、僕は虫に操られ、終いには喰われていたかも知れません。助けていただいて、本当にありがとうございました」
僕がお礼を言うと、女将は笑って答えました。
「こちらこそ。一社さんと高縄さんが製造しているあのスプレー、とても役に立っています。お仕事、頑張ってくださいね」
お会計を済ませて、僕たちは店を出ました。
格子戸を開けて一歩踏み出すと、そこは紛れもなく公園に入ってすぐの場所でした。
振り返ると店はなく、ただ街灯に照らされた青いベンチが一つあるだけです。
六方が声をかけてきました。
「もう、その場所には別世界への入り口はないよ。私たちを招き入れるためだけに開けた、一過性の扉だったのではないかな」
「旦那の言うとおり。もう、ここに店が建つことはないでしょう。高縄さんにとっては、貴重な経験でしたな」
タヌキはそう言うと、いなり寿司の詰まったフードパックを掲げました。
「今夜は巣に帰って、妻と子供にこれを食べさせます。それでは、また」
あいさつと同時に、大貫教諭の足元から紫色の雲が沸き立ちます。
雲が晴れると、そこにはもう彼の姿はありませんでした。
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