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狐の料亭
タヌキの声が裏返りました。
「六方の旦那、僕のせいじゃあ、ありません。誓って何もしていませんよ」
目の前には小料理屋がありました。
場所は大学から六方のマンションに向かう途中のバス通り沿い、「りんりん公園」と名付けられた旧林業試験場跡公園の敷地内でした。
どうしてタヌキが弁解しているかといえば、「今朝、通った時には店なんてなかったぞ」と、六方が驚きの声をあげたからです。
数日前に通った僕も、この場所に建物なんて無かったと記憶していますし、何より公園の敷地内に一般の飲食店が建つわけがありません。
「どんなに急いでも、昼の間に店が一件建つはずがない。私の意見を言わせてもらえば、人を化かす類の妖怪に幻影を見せられている、としか思えない」
六方は眉を寄せて、汗が浮かび始めたタヌキの顔を見ています。
その表情は冷ややか、と言ってよいものでした。
タヌキもずいぶん、居心地が悪かろうと思います。
僕は助け舟を出すことにしました。
少し話題を変えてみます。
「店の名前、何て読むんですかね。 はちおまん? いや、はちびまん、かなあ」
看板と提灯には、「八尾萬」と書かれていました。
「いやあ、僕にもさっぱり分かりません。『やおまん』じゃ、ないですね、きっと。……八百屋みたいで変ですから」
首をひねるタヌキを、六方がますます疑いの目で見ています。
ふいに、低いけれどもよく通る、女性の声がしました。
「ひい、ふう、みい、よう、いつ、む、なな、や、の『や』に、尾っぽの『お』、万屋の『よろず』で、『やおよろず』と訓んで下さいまし」
気がつけば、いつ中から出てきたのか暖簾の下に、和服姿の女将とおぼしき人物が立っておりました。
「寄っていらっしゃいませんか。温まっていかれたら良いですよ」
細面で色白の女性は、そう言って目を細めました。
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