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柚葉は男同士の友情をはぐくんだことがないため、どのようにして澤村、もとい、太郎と信頼関係を築けばいいかわからなかった。取り敢えずほとんど毎日昼食と夕食に誘い、金曜の夜は飲みに行き、休日もともに過ごすことを一方的に決めて、その旨を伝えると、太郎は一瞬キョトンとした顔をしたが笑顔で頷いた。急に時間ができた時なども、それまでは女性を誘っていたところをすべて太郎との時間に使い、一方的に呼び出した。柚葉の電話が深夜でも早朝でも、太郎はワンコールで必ず電話に出て、どんな誘いも断らなかった。誘っておいて無計画な柚葉を責めることなく、いつも楽しそうに計画を立てて、次はどこに行きましょうかと、早く飼い主に撫でてほしいと願う犬のように、熱のこもった目で柚葉を見つめるのだった。
「僕、先輩と一緒にいる時間が一番幸せです。楽しいです、毎日」
そう言って笑顔で微笑まれると、こちらまで嬉しくなる。それでも、柚葉はそっぽを向いて「ふーん」とかわいくない返事をしてみせるのだった。余裕のある先輩を気取ってみたかったのである。
先輩後輩で、友達。そんな関係が築けていることに、柚葉は満足していた。
そうこうしているうちに、太郎と初めて話した日から1年がたった。
柚葉とともにご飯を食べるうち、不規則だった食生活が改善され、がりがりに瘦せていた身体に適度に肉が付いたこと。猫背をやめるように柚葉がしつこく言ったおかげで姿勢も良くなってきたこと。さらに仕事も、柚葉の手伝いもあって前よりは嫌がらせを受けなくなってきたこと。それらを、太郎は昼食を共に食べながら、無邪気な笑顔で今日も柚葉に話してくる。もともと太郎は人見知りで、同期の社員ともそれほど仲良くないらしく、そんなふうに笑顔を見せるのは少なくともこの会社では、自分1人のようだ。そう思うと、柚葉は太郎との友情を独り占めしているという優越感で胸がいっぱいになるのだった。
「先輩、聞いてます?」
「聞いてる、聞いてるから、口に飯入れたまましゃべるなよ」
「ふぁい。」
そう言って、太郎はごくん、と口の中のものを飲み込むや否や、またすぐに話し始める。
「きのう、お前は最近調子いいからなって主任に褒められて、大きい仕事を任されたんですよ」
「良かったな。がんばったな」
そう言って、ぽんぽんと頭をたたいてやる。そうすると、太郎はますます目を輝かせて笑うのだった。
「ありがとうございます、ぜんぶ先輩のおかげです!それで、今週末どこ行きます?前、先輩がイルカ見たいって言ってたから、ここの水族館とかいいなって思うんですけど」
すこし遠慮がちに次の週末の計画を告げてくる後輩のことを可愛いと思いつつ、そう思っているのを悟られないように柚葉は「いいんじゃない?」とわざとそっけなく返すのだった。
こんなふうにして、太郎と友情を深めるのに喜びを感じていた柚葉だったが、ひとつだけ不満なことがあった。
彼とはいっさい女の話ができないのだ。
柚葉は、すべての快楽を女性たちから教えられてきたと言っても過言ではない。それに柚葉の好きな男の友情物語では、よく男友達同士で好みの女の話をして盛り上がるシーンも多かったので、柚葉は幾度も太郎に好きな異性のタイプや、これまでの女性との経験などについて尋ねたが、彼は首を振るばかりで一向に話に乗ってこない。柚葉が女性とのエピソードを話し始めると、とたんに不機嫌そうな顔になって貧乏ゆすりを始め、相槌も打たずによそ見をして、「あの鳥綺麗ですね」とか全く関係のない話題で話をそらそうとしてくる。まったくもって意味が分からない。せっかく最近はわりとモテているようなのに、相手を振り続けていると風のうわさで聞いた。まったくもって、損をしているとしか思えない。
ならば、兄貴分として俺が克服させてやらねばと、柚葉は意気込んだ。
そして今日の仕事終わりに、澤村にさし飲みしようと嘘の誘いをかけ、柚葉は関係のある女性たちの中でも選りすぐりの美女たちとの飲みの場を設けた。太郎はいつも通り嬉しそうに柚葉との会話を楽しんでいたが、女性たちがその場に入ってきたとたん、座席の隅の方に避難し、ブルブル震えてその場から動かなくなった。
「太郎、大丈夫だよ。怖くないから」と、いくら柚葉が言っても首を横に振るばかりで動こうとしない。女性たちも最初こそ澤村をかまっていたが、全く返事をしない澤村に愛想をつかし、せっかく楽しかったはずの場が白けてしまった。柚葉が女性たちと軽妙なトークを繰り広げて場の空気を盛り上げているあいだも、太郎がずっと上目遣いで柚葉に懇願するような視線を向けてくるものだから、場を早く切り上げざるを得なかった。不満そうな女性たちの頬にキスの雨を降らせ、好きだよと耳元で囁くと、彼女たちは満足そうな顔をして、柚葉と次に会う日の約束をせがんだ。その間も、太郎はぐいぐいと柚葉の手を引っ張り、離そうとしない。あとで連絡するね、と謝りながら、柚葉は太郎に引きずられるようにしてその場を後にした。
店の外に出ると、柚葉は怒りにまかせ、つかまれた手を力強くふりほどいた。
「おい、なんなんだよ、いまの!」
そう怒鳴ると、太郎はびくりと震えた。
「…僕、女性が苦手なんです。ほんとうにダメなんです。」
「なんでだよ?」
「………。塩沢先輩はわかってくれてると思ってました。それなのに、嘘までついて、あんな場に俺を連れて行くなんて、ひどい。酷すぎる」
「だから、なんでそんな嫌いなんだよ?なにかあったのか?」
「…」
澤村は黙りこくったまま地面をじっと下を見ている。
「理由言えないのか?俺たち友達だろ?友達ならなんでも話せるもんじゃないのかよ?」
そうですね、という言葉を期待していたのに、澤村は顔を上げて反抗的なまなざしで柚葉を見つめた。どこかから飲み会帰りの集団が歩いてきて、大声で騒いでいる。
「おい、なんだよその目…」
「…友達だなんて…ない」
酔っ払いの騒ぎ声にかき消され、太郎の声がうまく聞き取れない。
「は?なんだよ?」
「いいえ。なんでもないです。そうですね、大事な友達ですもんね。そうですね」
まるで自分を納得させるみたいに太郎は大きな声で繰り返しうなずいている。煮え切らない様子にイライラして、柚葉はもう一度言葉の真意を問いただそうとしたそのとき、太郎の親指がそっと柚葉の唇に触れた。その指が、ゆっくりと唇の輪郭をなぞり、そして離れる。
「…口紅がついてました。」
そう言うと、澤村は柚葉の耳元でささやいた。
「あまり、女性を甘く見ない方がいいと思いますよ。…きっと、あなたは聞かないでしょうけど」
その声も柚葉を見つける目つきも、氷のように冷たく、いつもの彼のあたたかく優しい声音とは正反対だった。同じ人物とは思えない。
固まっている柚葉を残し、太郎は静かに駅の方向へと歩いて行った。その後ろ姿を見つめながら、柚葉は初めて、自分の軽率すぎる行動のせいで大事なものを失ったことに気付いたのだった。
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