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思えばきっかけは、本当にしょうもないことだった。
「悠、脱いだコートはハンガーに掛けてって、何度言ったら分かるの? 私、疲れて帰って来てソファにも座らせて貰えないわけ?」
三日続きの残業で体はクタクタで。その上、外は今にも雪が降りそうなくらい寒くって。
だから、ぬくぬくのコタツにだらりと寝そべり、テレビのお笑い番組をBGMにスマホゲームにいそしむ悠に、無性に苛立った。
「ちょっと、聞いてんの!?」
生返事を返すだけで顔も上げない悠にさらに腹が立ち、乱暴にスマホを奪い取った。電源を切り、ソファの上に放る。
それがバトルの始まりだった。
友達の紹介で悠と知り合い、付き合い始めて半年。彼が私のアパートに転がり込む形で同棲を始めて、まもなく二ヶ月になる。
懐メロの歌詞じゃないけれど、もともと他人の二人が一緒に住んでいれば、色々と趣味が合わないことは出てくる。
トイレの蓋を閉めないとか、朝ベッドから出るときに掛け布団を整えないとか、コタツの中で無遠慮に足を伸ばすこととか。一つ一つは些細なことだけど、着実に不満は溜まっていた。
どうやらそれは相手も同じだったらしく、互いへの非難合戦になった。普段、めったなことで言い返してこない人だけに、一つ言い返されるごとに私もヒートアップしていって……。
「家賃も払ってないくせに、エラそうにしないでよね!」
一瞬にして強張った悠の顔を見て、私は自分の失言を悟ったけれど、もう遅かった。
悠はきゅっと口を引き結ぶと、ソファの上に脱ぎっぱなしにしていたコートを素早く羽織り、スマホを拾い上げた。無言のまま、大股で私の横をすり抜け、玄関へと向かう。
玄関ドアが開いて閉まり、カチャリと鍵のかかる音がして。
一拍遅れて、外から入り込んだ冷たい空気が、立ち尽くす私の頬をひやりと撫でた。
鍋の中のクリームシチューを温め直して器によそう。私の好きなマッシュルームがたっぷり入ったシチューは、悠が作っておいてくれたものだった。
のろのろとシチューをスプーンですくい、口に運ぶ。温かい。
コタツも私の体を暖めてくれる。小さなコタツでも、一人なら気兼ねなく足を伸ばせる。
それなのに、私の心はどうしようもなく冷えたままだった。
食事の合間にも、一分置きくらいにスマホの画面に目をやる。何度確認しても、メッセージアプリは新着メッセージを知らせてはくれない。
騒がしいテレビを消すと、静まりかえった部屋に置き時計の秒針の音だけが響いた。
不意に、ピュウッという鋭い風の音が走り、次いでガタガタと窓が鳴った。
カーテンの隙間から外を伺うと、暗闇の中、右から左に、ほとんど水平に流れるように無数の白い粒が飛び過ぎるのが見えた。
「雪……」
この冬初めての雪が、吹雪のような勢いで降り出していた。
悠はきっと傘など持って出ていない。いや、こんなに風が強くては、傘など意味がないかもしれないけれど。
財布はいつもコートのポケットに突っ込んでいるから、きっと持っているはず。子どもじゃないのだから大丈夫だ。お金さえあれば、ビジネスホテルに部屋を取るなり、インターネットカフェに飛び込むなり、どうにでもなる。
それとも……今頃は誰か他の女の部屋に転がり込んでいるのだろうか。
悠に女友達が多いことは知っている。行くアテくらい、きっとある。
そうしてそのまま、今度はその部屋に住み着くのかもしれない。
私のアパートにふらりと居着いたように……。
カタン、と玄関の方で小さく音が鳴ったような気がした。
ハッと身を起こすと、カーテンの隙間からひんやりとした朝の光が漏れている。いつの間にかコタツで眠ってしまったらしい。時計を見ると午前六時半を回ったところだった。
仕事帰りのまま着替えもせず、リビングの電気は付けっぱなし。汚れたままの食器は表面がカピカピに乾いてしまっている。部屋の中は私が寝落ちしたときのままだ。悠が帰ってきた様子は、ない。
祈るような気持ちでメッセージアプリを開いたが、待ちわびる知らせはなかった。
今日が土曜日なのが恨めしかった。平日なら、仕事さえしていれば時間は過ぎてくれる。憂鬱と後悔を独りで持て余さずに済むのに。
凝り固まって重たい体を引きずるようにして、コタツから這い出る。
ふと、雪はどうなっただろうかと気になった。カーテンを開け、曇った窓ガラスを袖口で拭う。
思わず、ほぉと息がもれた。
窓の外には一面、白い世界が広がっていた。朝の光を浴びて、静かに輝いている。家々の屋根も、街路樹も、電線も、アパートの前の道も……。
あるものに気づき、私は身を乗り出した。冷たい窓ガラスにおでこをくっ付け、真っ白な地面を見下ろす。
それは、アパートの前の道から私のアパートへと続く一組の足跡。
気づいた瞬間、コートと、マフラーを二本つかみ、玄関へ走った。
スニーカーを履き、玄関ドアを開ける。冷たい空気が入り込んできたが、もはや気にならなかった。
うっすらと積もった外廊下の雪の上に、足跡が残されていた。
外階段の方からまっすぐに私の部屋の前へとやってくる足跡。ドアの前の足跡は躊躇うように乱れている。そして再び外階段へと向かう足跡。
見覚えのある、男物のスニーカーの。
しょんぼりと立ち去る悠の後ろ姿が見えたような気がして、鼻の奥がツンとした。
この足跡を追って行けば、きっと彼にたどり着ける。
きっと、まだ間に合う。
去りゆく足跡の隣、真新しい雪の上に、私は一歩を踏み出した。
〈了〉
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