【 第三話: 角栄との出会い 】

1/1
前へ
/4ページ
次へ

【 第三話: 角栄との出会い 】

 忠治はその後、徐々に頭角を現し、議会や政府役職を歴任することになる。  建設委員長、地方行政委員長、内閣委員長、文教委員長、議院運営委員長を経て、1972年(昭和47年)の佐藤派分裂により、ついに、あの田中角栄派に加わることになるのである。  そして、第2次田中角栄内閣の時に、角栄の盟友として、『郵政大臣』に就任するのだ。  田中角栄は、皆が知っている通り、日中国交正常化を実現し、30以上の議員立法を成立させ、その驚異的な決断力と実行力から『コンピューター付きブルドーザー』と言われた男だ。  前にも述べた通り、角栄と忠治はとてもよく似ている。  それは、見た目や経歴だけではない。  とにかく、豪快で豪傑なのだ。  地元では、知多の田中角栄とも言われていたという。  この当時、忠治は、アジア諸国、とりわけ北朝鮮との関係改善に尽力し、初めて訪朝議員団長として北朝鮮入りし、平壌で日朝共同声明に調印までしている。  その後、何度も外国を訪れて、アジア諸国との関係を修復していったという。  翌、1973年(昭和48年)には、日中海底ケーブル建設の調印も行っている。  また、地元でもいくつか高速道路などの計画や、名古屋のベッドタウンと言われた巨大な団地群、地元への大企業誘致など、様々な取り組みを行っていった。  祖父から聞いた話だが、知多半島と渥美半島、三重県伊勢までを結ぶ巨大な道路ネットワークの建設も考えていたようである。  それが実現していれば、今の『東京湾アクアライン』どころの騒ぎではない。  これも、角栄の唱えた『』に基づく、交通・情報通信の全国的ネットワーク形成の一部に過ぎなかったのかもしれない。  ちなみに、当時の第2次田中角栄内閣の閣僚は、錚々(そうそう)たるメンバーである。  通商産業大臣に『中曽根康弘』、外務大臣に『大平正芳』、行政管理庁長官に『福田赳夫』など。  そのような豪華メンバーの中で、忠治は、郵政大臣を務めたのである。  忠治は、そんな田中角栄内閣の下で、背中を押されるように、様々な政治活動を活発化させていった。
/4ページ

最初のコメントを投稿しよう!

30人が本棚に入れています
本棚に追加