絵の具まみれのすり切れた布切れ

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絵の具まみれのすり切れた布切れ

 うららかな陽気の昼下がり、緑豊かな小川のほとりで、テツはキャンバスに向かって絵筆を動かす。日ざしのきらめきと暖かさを嬉しがる小鳥の歌声に合わせるような絵筆の動きだ。  そのとき、小川のそばを通る道を走ってきた高級車が停止する。 「ねえ、ちょっとよろしいでしょうか?」  テツが絵筆を止めて振り返ると、そこには高価な服とアクセサリーを身にまとった若い女性。その隣にはメイドらしき中年の女性も。 「はあ、なんでしょう?」  絵を描くのを中断させられたせいで、テツは少し苛立ちを覚える。 「あなた、なかなか素晴らしい絵を描くのね。実は何度かここを通るたびに、あなたが描いている絵をちらっと拝見してたんですが、ひょっとしたら名のある画家なのでは、と思って車を停めましたの」  高価な衣装に身を包んだ若い女性の言葉にテツは苦笑する。 「いいえ、ぜんぜん有名でもなんでもないですよ。わたしの絵が売れてれば、こんな小汚い格好なんかしてませんからね」  その言葉のとおり、テツは薄汚た格好だ。服を着ているというより、絵の具まみれのすり切れた布切れを身にまとっているようだ。 「まあ、ご謙遜を。でも、私はその絵に魅せられてしまったんです」  若い女性は描きかけのキャンバスを指さす。 「こうしてじっくり見ていると、ますます素晴らしい絵だということがわかりますね。まだまだ未完成ではありますけど、隠しきれない才能の片鱗をキャンバスの端々に感じられます。  それに写実的にもかかわらず、単に目の前の風景を写しとったというだけの絵ではありません。画家その人の作家性を帯びた物語というべきものがたしかに備わっていると感じられます」  そこまで言われるとテツも悪い気はしない。この人は若い金持ちでありながら、それなりに審美眼を備えているのだろう。
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