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それにいちばん大事なことは
「こうして留学の目処が立ったのも、みんなあの老人のおかげだ。あの老人にお礼を言いたいが……」
テツは小川のほとりに立つ。でも、あの老人どころか誰の姿もない。小川がさらさらと流れるそばで、深い緑の草や木々が太陽の光を存分に浴び、さらに上に伸びようと背伸びしている。
「コンクールの締め切りは近いが、何も今すぐ留学に旅立てるわけじゃない。しばらくは手続きも準備も必要だ」
テツは小川を眺める。描きかけの絵が頭に浮かび、目の前の風景に重なる。こんな絵を描きたいという希望と構想が胸に沸く。
「留学に旅立つ日までここで絵の続きを描こう。そしてそれまでにあの老人に出会えたならば、お礼にこの風景を描いた絵を贈ろう」
テツはさっそく絵の道具を取り出し、描きかけのキャンバスをイーゼルに乗せる。
どんな状況でも自分は一生懸命に絵を描くしかないんだ。金銀宝石を手に入れて浮かれるなよ。絵描きとして大事なのはこれからなんだからな。パレットの上に絵の具を出しながら、テツは自分にそう言い聞かせる。
それにいちばん大事なことは。テツは絵筆の動きを止めて、改めて自分に言い聞かせる。
それにいちばん大事なことは、おれには肖像画は向かないってことだ。テツは自分で自分に苦笑し、ふたたび絵筆を動かしはじめる。
離れた場所で、そんなテツをあの老人がそっと見つめる。
「なかなか上手いことやったようじゃな……」
老人は満足したような表情でうなずくように、ゆっくりと首を縦に振る。それから老人はテツに気づかれないよう、その場をこっそりと去ってゆく。
(おしまい)
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