あの星が見たい

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  ★  私の名前が嫌いだ。  苗字と同じ音から始まるのが嫌。  子、なんてつく古臭さが嫌。  誰かに亜子ちゃん、なんて呼ばれるたびに、その呼び方に嘲笑が混ざっている気がした。  知りもしないはずなのに、皆が私の名の由来を嘲笑っているような気がして、とてもとても嫌だった。  だから私は頑なに、誰の事も名字で呼んで、冷たく、暗く、よそよそしくした。  私は名前を呼ばれたくないんだと、回りくどく、訴えるように。  トン、トン、トン。  そよ風の音すらはっきりと聞こえる青空の下で、軽快な音が足元から響いてくる。それが舗装された道路の上を行く私の足音なのだと思うと、その軽快さがなんだか嬉しくて、より足運びは軽やかになっていく。  4月の半ばにしては冷たい空気が心地いいのは、身体が嬉しさに火照っているからだろうか。今朝方に初めての親友が出来た高揚は、昼を過ぎてもなお続いており、まるで元旦の昼間のような、理由のないむず痒さが、身体の奥から湧いてくるようだった。  物資が揃っていそうなデパートをひとまず目指そう。そう決めてから二日目の今日。照ちゃんが言うには、既に半分は過ぎているから、道のりとしては順調、とのことだった。 「亜子ちゃん、こっち」  前を行く照ちゃんに呼ばれて、訳もなく空を眺めていた視線を下に降ろす。三叉路を右に行き、その先をまっすぐ通り抜けるのだという。目を向けた先にあったのは、活気の失せた商店街だった。  すぅ、と心が冷えた気がした。はて、何故だろうか。ついさっきまであった高揚感は消え失せ、スキップすらしそうになっていた脚は重く、商店街の中を行くのを嫌がっているようだ。別に嫌なものは何もないはずなのに。と考えかけて、理由はすぐに思い至った。  静かなのだ。本来活気あふれる場所であったはずの小さな商店街は、人の一人もおらず、店頭に並んでいる品々も、生鮮食品は少し危ない臭いを放っていた。これではテンションが下がるのも仕方ない。  いけない、いけない。我に返り、軽く頬を叩いて心を引き締める。馬鹿なことを考えるものじゃないわ、浅木亜子。そんな風に浮かれる権利も、落胆する権利も私にはない。この静かな商店街は誰のせい? それを忘れてはいけない。私は重罪人だ。世界から、この地球から人を全て消し去ってしまった、死刑すら生ぬるい罪を犯した者。そんな人間が、今を楽しむだなんて、不謹慎にもほどがある。  立ち止まり、スゥ、と深呼吸をする。冷たい空気で肺を満たし、心の中の浅はかな熱と共にゆっくり吐き出す。そうだ、忘れてはいけない。私は罪人だ。背中に下げた剣の重さを、決して蔑ろにしてはいけない。世界を変えてしまったあの日の感情を、薄れさせてはいけない。  軽く身を揺すると、さっきまで意識の外にあった剣の重みがズシリ、と身体を苛んで来る。しっかりと踏みしめるようにして歩いてゆけば、商店街はすぐに通り過ぎた。と同時に、深くため息に似た息を吐く。 「亜子ちゃん」  呼ばれて顔を上げると、前を歩いていた照ちゃんが、心配そうにこちらを覗き込んでいた。 「大丈夫? 顔色悪いけど、少し休む?」 「ありがとう、大丈夫。照ちゃんこそ、疲れたら言ってね? 朝からずっと歩き通しだもの」  実際の所、荷物の差も考えれば、私より彼女の方が肉体的に疲労しているとは考えづらかったけれど、それでも私には、照ちゃんの方が私よりずっとくたびれているように見えた。見ず知らずの地を、自分の居場所すら表示されない、肩幅よりも大きな地図を参照して道を探す役割は、それほどに過酷という事だろう。  まだ私のことが気になるのか、チラチラとこちらを見ていたので、平気だ、というアピールも兼ねて駆け寄り、隣を歩く。 「今、どのあたりなの?」 「えっと、さっきあった商店街がここだから……今歩いているのがこの道路で……だから、この辺りだね」  照ちゃんが指で示した地図の一か所を覗き込む。当面の目的地としたデパートまでは、この調子なら夕方頃には、と言ったところか。  しかし、こうしてみると、書物の地図というのは本当にわかりづらい。スマホのそれと比較すると、自分の居場所が表示されておらず、書かれているのは道路や橋の名称、それに記憶に曖昧な、公共施設などを表す地図記号の数々と、こまごまとした店の名前。  見慣れた人には平気なのかもしれないが、私の目では、紙面の中に焦点を合わせることすらできない。読み方すらわからない問題文を見ているようであった。ましてやそれを、今歩いている道と照らし合わせるともなると、二次元の紙面と三次元の現実を頭の中で整理して結び付けなければならない。それだけで脳味噌の奥が沸騰しそうな気さえしてくる。 「照ちゃん、本当にこれ読めるの?」 「読めるって言うか……変なこと書いてるわけじゃないし」  私の質問に不思議そうに首をかしげる照ちゃん。説明書すら読むのが億劫になる私には、地図の情報量はあまりにも多すぎた。まして前提となる知識や情報が頭の中になければ、理解できるはずもない。彼女の頭には、そもそも私には無い情報が詰まっているのだろう。 「簡単だよ、ちゃんと最新の奴を持ってきたし。ほら、ちゃんとお店の名前とかも一つ一つ書いてあるでしょ」  その一つ一つが読みづらい、という話なのだが、そこは理解してもらえなかったようだった。言われるがままに目線を文字列の上で滑らせていく。ごった煮の情報にめまいを覚えかけたところで、ふと一つ引っかかる単語があった。 「……金沢動物園」  それは、私が足繁く通っていた動物園の名前。さっき示してもらった自分たちの場所と照らし合わせると、意外に近くにあるようだった。 「知ってるの?」 「うん、よく見に行ってた。こうしてみると、やっぱりあんまり遠くには来てないのね、私達」  幼いころから上倉町で育った私は、父に連れられたいくつもの場所の中で、特に動物園を気に入っていた。彼らは私のことを気に留めないし、私に何かを押し付けてくることもない。ただこちらが一方的に観察するだけの状況が、とても居心地がよく感じられたのだ。 「そうだねー、というか、この動物園が丁度、三坂街と上倉町の間にあるんだよ。」 「あ……そうなのね。いつも覚えた道を行き来してるだけだったから気付かなかったわ」 「それって、この道?」  照ちゃんは動物園を指さすと、そこから一つのルートを指で辿った。ピンとこなかったけど、その流れの中に、見覚えのある店の名前がいくつかあったのは確かだった。 「うん、多分……すごいわ照ちゃん、なんでもわかっちゃうのね。不器用な私とは大違い」 「あはは、言い過ぎだよ、大したことできないって」  と言いつつも、満更でもなさそうに照ちゃんが笑う。その笑顔が一瞬ブレたような気がした。  あぁ、まただ。  照ちゃんは明るい子だ。いつも元気に、笑う時もとても快活に声を上げ、今みたいに太陽のようにニッコリと微笑んでいる。  でも、今朝辺りからか。顔に浮かべていた笑みが、時折仮面かシールのように貼り付けたように見えるときがある。今も、これまでと変わらない笑顔のはずなのに、どこか一瞬、陰が紛れた気がした。それは視界の端をかすめる羽虫のように、あ、と気が付いた時には、影も形も無くなっているのだ。 「もう、ほら。人を誉める暇があったら、一歩でも多く進むのっ まだまだ先はあるんだから」  そして、そう言う笑みを見せた直後は、照ちゃんは必ず私の背中を叩いて鼓舞し、自らも駆け出さんばかりに歩き出すのだ。  まるで、私からの追及を逃れようとしているかのように。それを止めてまで、笑顔に隠れている陰を引き出すのは、なんだか憚られた。 「あ、待って……」  慌てて追いかけようとしたとき、ふと脳裏に思い描く景色があった。  動物園での乗馬体験の記憶。鬣が特徴的な馬に、スタッフに手伝ってもらいながら乗り、手綱を握った瞬間、何を思ったのか馬が突然暴れ出し、私を振り落としたのだ。近くにいたスタッフが慌てて受け止めたから怪我はなかったけれど、私の視線の先で、馬はそのまま小屋の中へと逃げて行った。前の人が乗るまで大人しかったのに、まるで私だけを拒むように。結局馬には乗り損ね、なお憧れを持ちつつも、その時の性で気後れし、遠目に眺めるだけになってしまった。  その時の馬と一瞬照ちゃんが重なり、焦りは大きくなって、私の視界を狭めた。  景色がぐるりと反転した。踏みだした先にあった小石に気付けず、足首がグキリと嫌な音を立て、想定してない捩じり方をしながら、重荷を背負った私の身体を転ばせる。体中が痛い。道路と背負った剣に、身体が挟まれ、押し潰されているかのようだった。 「亜子ちゃん!」  私の異常に気付いた照ちゃんが、慌てて戻ってくる。その声に、さっきまでの明るさと余裕はなかった。 「ううん、ごめん、平気……早く行こう、時間が勿体ないから」  そんな彼女の心配して来る表情を見るのが悲しくて、慣れない笑みを浮かべて立ち上がり、歩いて見せる。照ちゃんはなおも心配そうにしていて、私が何事もなさそうに歩いても、その表情が和らぐことはなかった。  踏みだした脚に、さっきよりも剣の重さが響いてきた。ひねった足首が上げる鈍い悲鳴を、必死に噛み殺す。大丈夫、このくらい平気。ここで辛そうな顔をするわけにはいかない。  私は罪人なのだ。このくらい、罰の内にも入らない。
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