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暖かい喫茶店の中で窓越しに外を見た。
朝から降り始めた雪はうっすら積もり、昼過ぎになった今は止んでいる。スタンプのように幾人に押されまくった足跡。もう、一面真っ白な雪は見られない。
雪の降り始め。
その、一番最初のひとひらにちゃんと気づいた人はいるんだろうか。この世で一番清純で一番儚い煌めき。
音もなくゆっくりと舞い降りた小さな存在は、気づいた時にはもう降り積もってる。その始まりの瞬間を僕はまだ見たことがない。誰も気づかない。
雪ですら、降り始めたことに気づいてないのかもしれない。
「ま、そうだろうな」
飲みかけのカフェオレを飲もうと手を伸ばすと、僕の独り言を向かいに座る彼女に聞かれていた。
「どした? 何が?」
それまで問題集とノートに向けられていた大きな瞳が僕を見つめていて、返事をしようとしたら声が掠れた。
「いや」
ふふ、と短く笑って再びノートに向き合う。僕は平然とカフェオレを飲んだ。
大学受験を控えた僕たちは最後の追い込みで勉強をしにやってきている。
ふと、彼女がシャーペンを置いてカップに手を伸ばしながら窓の外を見つめる。
「試験の日も雪降るかな」
「…………さあ。降らないんじゃないの? 確信はゼロだけど」
ミルクティーを一口飲んで笑った。僕は思わず彼女を見つめる。えくぼが出来る、見てると思わずホッとするこの笑顔。
「違うんだー。試験の日、雪降ってほしいの。そしたら合格できそうな気がする。っていうか、すごく勇気が出る」
「……そう。何か思い出でもあるの?」
瞬間、嬉しそうな顔をして話し出した。
「さすが、頭良いよね! 小学生の時、家族旅行で箱根に行ったら雪が降ったの。その降り始めの最初の一粒が私に降ってきたんだよ! なかなかに凄くない? 右のほっぺが冷たって思って、そしたらしばらくして降り始めたんだ。あれ、絶対最初の子だと思うんだよね」
最初の、一粒。雪の降り始め。
僕はどんな顔で話を聞いていたんだろう。
彼女を見つめ続けていたことは確かだ。
だって、本当に嬉しそうな顔で話していたから。
ミルクティーをもう一度飲んで、きょとんと僕を見つめた。
「ねえ今日、変じゃない? どうしたの」
雪の降り始めに僕はまだ気づいたことがない。
「どうもしないよ。大丈夫だよ。こんなに頑張ってんだから、合格できるって。……当日は、彼も一緒に行ってくれるんだろ?」
今度は真顔になって少しの間を置いて、うん。と小さく呟いた。
もう彼女を見ないように、ノートに目を向けた。問題集を1ページ捲る。彼女が僕を見ているのが分かる。
いつしか、僕の心の中にも、雪が降り続けていた。
何年も。何年も。彼女と過ごす時間が長くなっていくのと比例して。
少しずつ。少しずつ。だけど絶え間なく降り続けていた。
僕は恋をしていた。
やっと気づけたのは、彼女が先輩と付き合い始めたことを知った時だったと思う。
その彼と同じ大学を彼女は志望している。
もう一度顔を上げて、彼女を見る。
「雪も、きっと降るよ」
抱えた寂しさをほどくように彼女は笑った。えくぼを覗かせて。
いつか、雪解けの日もやってくる。
ちょうど、別々の道を歩き始めた頃に。
暖かい喫茶店の中で、僕らは再びノートに向き合った。静かな時間がゆったり流れていく。
僕の心の雪は降り続けている。
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