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「何もない……か」
親父さんの目つきが急に険しくなった。これまで1度も見た事のない厳しい表情に、少したじろぐ。
「お前さんね、『本当に何もない』人間ってのを見た事があるのかい?」
ドスの効いた、低い声。
「え? いや……いや、それは」
その迫力に、思わず口ごもる。
「オレはあるぜ……『本当に何もない』人間を見た事がよ。家や家族……それどころか命すら失ったヤツだ。いや、それだけじゃあねぇ。警察がオレの父親を発見した時には、心臓や腎臓、肝臓、目ン玉まで抜かれてたってさ。……闇の世界に貸しを作るってなぁそういう事だって、子供ながらに震えたよ。『根こそぎ持っていかれるんだ』ってね。ふふ……」
自虐的な笑みを口の端に浮かべてはいるが、その眼は決して笑っていない。
「それから先……オレん家は大変だったぜ。何しろ命が危ねぇから夜逃げするしかなかった。住民票も移せねぇから住むところもままならねぇ。最初のうちは路上や公園で寝て、スーパーの廃棄弁当を分けてもらって食い漁る。……地獄みたいな日々だったよ」
「……」
僕は何も言葉を返せなかった。その壮絶な人生は、単なる同情の一言で済むものではなかっただろう。
「裏社会の連中なんかとも付き合って悪いことにも手を染めたよ。……生きるためには仕方なかった。そのうち、大きくなってから裏道にあるリサイクルショップの店番を任されるようになってな……要するに盗品なんかの『資金洗浄』さ。そうやって、店を運営するノウハウを学んで……独立してから、もう30年ほどになるか」
テレビの中では攻守交代で親父さんの贔屓チームが守りに着いていた。
だが、この回からマウンドに上がったピッチャーはコントロールに苦労しているようで、親父さんの顔が益々不機嫌になっていく。
「まったく……もっとガンガン攻めりゃいいのに。何を逃げ回ってンだよ!」
『逃げ回る』……夜逃げしていく人たちも、まさにそんな感じなんだろうか。だが、親父さん同様に逃げた先に安寧な生活が待っているとも限るまい。
この世界の重圧に耐えられ無ければ『堕ちていく』しかないのだ。そして一度『堕ちれば』這い上がるのは容易ではない。
「……夜逃げですか。そうして逃げた人たちってその後、どうしてるんでしょうね」
親父さんがテレビのボリュームを消音に変えた。贔屓球団が負けている時に、アナウンサーが敵方に肩入れして嬉々としながら実況するのが気に入らないらしい。負けている時は、大抵テレビの音がしていない。
「さぁな……と言いたいところだが」
親父さんがすっかり髪の薄くなった後頭部に両手を沿える。
「事前に『逃げるから家財を処分して金にしたい』と相談を受ける事も結構あってな……そういう場合は『逃げた先の手筈』もやってたよ。いや……むしろ、オレにとってはそっちの方が『本業』かな?」
そう言えば時折、何も買わず何も売らずに親父さんとヒソヒソ話をしにくるお客が来てたっけ。あれはそういう事だったのか……。
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