祐一・保育士

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 お疲れ、と、低い声で安奈が言った。いくら潜めていても、砂糖菓子のように甘ったるい声をしている。彼女が寄りかかるベッドでは、折り重なるようにしてユキと青井が眠っていた。  いつ帰って来たのか、安奈はすっかり化粧を落とし、部屋着のジャージに身を包んでいる。そうしていると、まだ幾分幼さが残る顔立ちなのだな、と気が付かせられる。中学時代の彼女が胸の下の方を掠めた。  「部屋をね、解約しようとしたの。」  祐一の方を見もせずに、安奈は自分の膝先に視線を落としている。  「でも、できなかった。」  うん、と、祐一はそっけない相槌を打った。  安奈がこの話をどこに持っていくのかが分からなくて、それ以外適切な言葉が見つけられなかったのだ。  「信じてないのね。私は、祐一のこと。」  「……うん。」  「祐一なのに。……祐一、なのにね。」  うん、と、またそれだけ祐一は言った。彼女の傍らまで進んで行って肩を抱きたいと思ったけれど、朝日に浮かぶ彼女の肌が白すぎて戸惑う。その白さは、触れたらそのまま指に張り付いて溶けて行く薄い氷のようだった。  「ごめんね。」  と、彼女は詫びた。甘ったるい声で。  「いいんだ。」  祐一も辛うじてそれだけ返した。  彼ら四人の中で、一番悲惨な子供時代を送ったのは多分安奈だ。安奈の母親は、街灯からはるか離れた真っ暗闇で辛うじて客の袖を引くような街娼だった。外見が醜かったのではない。精神を病んでいたのだ。  安奈が中学に上がるとともに観音通りを出て、近くの団地に移り住んだのだが、やはり金回りは悪く、安奈は当たり前のように中学卒業とともに街娼になり、母を養うようになった。そしてそれから一年も経たない内に、安奈の母親は首を吊って死んでいる。観音通りにも団地にも馴染んでいなかった安奈にとって、ひとりぼっちの街娼稼業は辛かったはずだ。  人を信じるのは難しい。とくに、胸の中に空白がある人種にとっては。  祐一は思い切ってフローリングに膝を突き、安奈の肩を抱いた。そっと、慎重に。  もしかしたら突き放されるかな、と思ったけれど、安奈はおとなしく祐一の腕の中に留まっていてくれた。  「青井はちゃんと父親になったんだよ。俺たちも、大丈夫だよ。きっと、大丈夫。」  なにが大丈夫なのか、言葉にできなかった。祐一の中の空白が、全ての言葉をかき消していた。腕の中の安奈が微かに震えているのを感じながら、祐一は何度か、大丈夫、と繰り返した。それ以上適切な言葉を見つけられなくて。  「……祐一は、慰めるのが下手ね。」  幾度繰り返したか分からない『大丈夫』の後、そう言って安奈は笑い。祐一の肩を抱きかえしてくれた。  冬のまっさらな太陽がカーテン越しに射す、ひどく穏やかな朝だった。
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