sufferer

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 矢草淳吾(やぐさじゅんご)は千鳥足になりながら、駅方面へと向かっていた。恰幅のいい姿が不規則に揺れる。随分と夜が深くなっているため、矢草を避けて歩く人も疎らだった。 「んだよ、文句でもあんのかぁ」  目の前に人はいない。矢草の焦点を失った双眸は、昼間の上司に向けられていた。  この世で望んだ職に就けている者は、どれ程の数いるのだろうか。こどもの頃に聞かれる《なりたい職業》など、親を安心させる材料以上の意味はない。誰もが自分の憧れていた大人は世界を構成するほんの一粒に過ぎないと、遅かれ早かれ気付く事になる。  矢草にしても、それは同じだった。  体格が周りの男子と比べて大きいだけで、何にでもなれる気がした。ひたすらに威張り散らかしてきた少年が、高校卒業後に初めて手にした職は自動車ディーラーだった。若者の自動車離れも加速しており、市場は縮小傾向にあったが、聞き馴染みのある大手メーカーの名前と同じ看板にただ惹かれた。  だが、所詮は山口組という組織名に縋る末端組員のようなものだ。安定した雇用形態とは程遠く、結果を残さなければ薄給激務が若い身体を徒に蝕んでいく。大卒からは煙たい存在として扱われ続け、気付いたら数年で仕事を辞めていた。  一度自分の中で〝辞める〟という行為を正当化すると、そこからは薬物中毒のように歯止めが利かなくなった。  ――― どうせ、逃げればいいんだから。  矢草の心に巣食った自己肯定意識は、仕事に対する責任感を欠如させていった。  これは俺に合っていない。あいつと同じ職場で働きたくない。  何かに理由を付けて、仕事を取っ替え引っ替えしている内に、矢草は20代後半を迎えていた。さすがにこのままではマズい。負け組の住みつきそうなボロアパートで女と同棲も始めていた。大した職歴を持たない男が行き着いた先は、《未経験大歓迎》という如何にも怪しい文言で求職サイトを彩るシステムエンジニアの仕事だった。 「文句言うなら、てめぇが教えろよ」  12月の夜風が火照った身体を急速に冷やしていく。このまま帰って、寝て、また明日を迎えたくない、という思いが矢草に余分な歩数を稼がせていた。  この冬を乗り切る、という責務をたった一枚で担っているチェスターコート。そこに悴んだ右手を突っ込む。二つ折り財布の表面のザラつきが、指先の痺れとともに伝わってくる。中身は持ち上げるまでもない。ストレス抑制の酒につぎ込んだせいで、財布本来の重さと大差は無くなっていた。
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