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気付けば、馴染みある駅前広場まで辿り着いていた。矢草と似たような恰好の男たちが、至る所で自由気ままに腰を下ろしている。鞄を傍らに投げ捨て、星一つない空を仰ぐ者。ベンチに寝そべって、自らの領域を誇示する者。その全てから、アルコール分を含んだ矢草と同じ腐臭が漂っているようだった。
「くそ、負け犬どもが……」
俺は、あいつらと違う。帰るべき場所があって、守るべき対象もいる。客観的な視点を持ったことで、矢草は自らの帰巣本能を呼び起こす事ができた。このまま電車に乗るのはマズい、と直感する。矢草の家の最寄り駅はここから指して遠くはないのだが、乗り過ごすと非常に面倒な位置にあった。
矢草は右手で財布を握りしめる。店を出る際の会計を思い出す。2枚の紙幣が財布に残っていたはずだ。最悪、運転手に嫌な顔をされようが、クレジット決済で押し通せば問題ない。小学生の頃に抱いた夢を記憶から探りつつ、矢草はタクシー乗り場へと向かった。
さすがに車内で粗相を犯す気にはなれなかったので、矢草は手近にあった高架下の公衆トイレに寄った。よたよたと個室を見て回り、一番奥の洋式便所に足を踏み入れた。
扉に鍵をかけると、束の間のプライベートを手にした気になる。
「ふざけんな、くそが!」
もう誰に牙を剥いているのか、彼自身にも分からない。それは大した問題でも無かった。
鞄を扉に取り付けられたフックにかけ、上からコートを覆い被せる。自重を支える襟元が伸び、痩躯の男が首を締め上げられているように見えた。
今、便器の中を覗いてしまったら、立ちどころに吐き気を催してしまう。矢草はあえて視線を逸らしながらパンツを下ろし、冷え切った便座にゆっくりと座る。矢草が入ってきた時からトイレ内に人影はなかった。飲み屋街から近い割には比較的きれいで、無駄に広い。心置きなくスマホをいじりながら、用を足していた。
まさにその瞬間、
……ガコガコガコ。
矢草は突発的な物音に、思わず身震いした。
明らかに矢草のいる個室内で反響している。
まず視界に入ったのは、先ほど鍵をかけた扉がコートとともに振動している様子だった。
誰かが外から扉を叩いている。
おい、入ってんのが分からねぇのか……
いつもなら発していたであろう言葉を、矢草は既のところで飲み込んだ。
この個室トイレの仕切りと天井との間には、数十センチの空間がある。鍵を閉めたまま中で人が倒れた時に、速やかに救助が行えるように設けられた、普段からは意識などしていない隙間。当然、矢草も鍵を閉めた段階で、どこか安心安全を感じ取っていた。
……ガコガコ、がこ。
その隙間、扉上部に。指が、腕が、かかっているのである。
扉を叩いていたのではない。
……登っていたのだ。
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