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矢草の脳内が状況整理に追われた、ほんの数秒後。
隙間から乗り出した奇怪な腕がコートの首根っこを掴み、あっという間に外へ連れ去った。その勢いから同じくフックにかかっていた鞄が外れ、どすんっという鈍い落下音が再び個室内に響く。
「え、ちょっと」
これは、つまり……。
「おい、まて。ど、泥棒だぁ!」
霞みがかっていた思考が見知らぬ悪意に晴れる。あのコートの右ポケットには、財布が入っているのだ。矢草は表に飛び出そうとするが、己のはしたない姿から踏み止まってしまう。外へと逃げ去る音が小さくなって、忽然と消えた。
「だれか! 財布を盗まれた、コートだ!」
犯人の腕先しか見ていないのだから、これ以上、伝えようがない。要点を得ない嘆願を吐きつつ、急いで下半身の露出を隠す。ここでも一瞬の迷いがあったが、のんびりと後処理をする暇もない。
矢草は寒空の元へと駆け出した。慌てふためく彼を他所に、外界はゆっくりと単調に進んでいた。走って逃げる姿もない。右か左かも分からない。
「おい、誰だ。俺の財布を盗みやがったのは!」
想像以上に張られた罵声が辺り一帯に飛んでいく。その火勢に気圧されてか、声をかけてくる者もいない。道の反対を歩く若い女が訝し気な目でこちらを見つめていた。
矢草は闇雲に走った。一応の目標をコートに絞るも、似通ったモノが縦横無尽に流れていく。酒を帯びた心肺機能では、ただ黙って財布の中身を思い出す他なかった。
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